これは、まずいか?
坂下は、表情に出さずに、小さく舌打ちしていた。
綾香ばりの、華麗なバク転、とまわりには見えたかもしれないが、坂下としては、不本意以外の何物でもなかった。
これだと、距離が取れても、反撃なんて出来ないじゃない。
綾香は、トリッキーな避け方をしても、ちゃんと反撃をするが、それは綾香が天才だというのもあるが、それを想定して練習をしている為だ。
坂下のそれでは、反撃する余裕は作れない。避けるのがやっとだ。
反撃に使った片手をついての蹴りも、あれは坂下の腕力と握力を最大限に利用したから出来たようなものだし、そもそも、回避の方法自体は、あまり華麗とは言えなかった。
地面をつかむようにして腕を固定したので、かなりの威力を出せたが、その代わり、その為に、コンクリートをひっかいた指に血がにじんでいる。
まあ、その程度の怪我は、問題ない。血の一つや二つでおろおろするような坂下ではないし、つかみ技を使う訳でもない坂下にとって、指先の出血ぐらい、何でもない。それに、血は出ているが、痛めた、という訳でもないので、痛みを気にしないなら、相手を掴むことだって可能だ。
しかし、その代わりに、綾香ですら、あの体勢から、あそこまで威力の高い蹴りは出せない、という蹴りを出せた。
問題は、脚の方だ。
下半身を飛ばして、ダメージは最大限に殺したつもりだけど……完璧じゃなかったからねえ。
道着の下なので見えないが、おそらくは、鎖の当たった場所が、赤黒く変色しているはずだ。先ほどから、傷みが引かない。
この所為で、先ほどは危なく捉えられるところだった。バク転をして避ける、という坂下らしくない回避方法を取ったのは、脚が瞬間的に自由には動かなかったからなのだ。
問題は、このダメージに、多分、チェーンソーが気付いているということ。
鎖が当たった瞬間にも、理解してはいただろうが、先ほどの回避方法を見て、おそらくは確信したはずだ。
チェーンソー相手に、薄皮一枚の攻防を続けていた坂下だが、とうとう、捉えられてしまったのだ。
不幸中の幸いなのは、ダメージがあるとは言っても、徐々に動きを取り戻しているところを見ると、骨には異常がないことと、この回復を図らねばならないときに、チェーンソーが攻めて来ない、ということだろう。
だが、坂下としては、それは不幸中の幸いですら、ない。
私と真っ正面からやりあったんだ、そうなるのは、当たり前だ。
綾香ならまだしも、坂下らしからぬ、増長にも似た気持ちで、このつかの間の休息の時間を、坂下は過ごしていた。
不幸中の幸い、と言えば、いかにもそれが運だったように聞こえるが、そんなことはない。全ては、坂下が作り出したことだった。
脚の骨が折れていないのは、坂下が下半身を逃がすことによって、脚に当たった鎖の、大部分の勢いを殺したことにあるし、チェーンソーがすぐに攻めて来ないのだって、坂下の片腕をついた状態から繰り出された蹴りや、今までのダメージでチェーンソーにも回復の時間が必要になったからだ。
なるほど、チェーンソーのガードは間に合ったかもしれないが、たかがガード、たかが防具でダメージを殺しきれるほど、坂下の蹴りは甘くない。ただ下半身を逃がしただけでは、チェーンソーの鎖の威力を殺しきれなかったのと一緒だ。
ましてや、チェーンソーは、上体を落としていた。ほとんどカウンター気味に入った坂下の蹴りを、片手のガードだけで殺しきれると思う方がどうかしている。
とは言え、ここまでで言えば、私の方がやや不利か。
坂下の冷静な判断は、今の戦力差を、そう評価していた。攻撃は、坂下の方が多く当てているが、一撃のダメージが、チェーンソーの方が大きい。
技の威力一つ一つなら負ける気はしないが、相手は武器持ちの上に、防具で身を固めている分、体力の削り合いでは、坂下の方が不利だ。
試合を長引かせて相手が体力を消耗するのを待つ、という手もある。相手は防具持ちだ。しかも、身体全体をすっぽり覆うような防具では、息苦しさもあるだろう。
が、チェーンソーの防具は、マスカレッドの防具と比べると、かなり軽いだろうし、それだけでなく、排熱やその他のことに関しても、かなり気を使っていてもおかしくない。
何より、息苦しいぐらいで、チェーンソーが弱音を吐くとは思えないし、そもそも、チェーンソーを疲れさせる、というのは、一体どれほどの時間戦わなければならないのか、分かったものではない。
お互いに、必殺の一撃を出し合う者同士の戦いだ。警戒して相手の出方を見て停滞状態になるのならともかく、まともにぶつかり合えば、どちらかかが先に、壊れる。
その点で、坂下は、正直やってはいけない失態を犯していた。
脚へのダメージは、何としても逃れるべきだったのだ。防具を持たない坂下が、相手のダメージを殺す為には、動き回るしか手がないというのに、その脚を殺されては、勝負にならない。
まあ、もっとも。
脚のダメージは、完全に消えた訳ではなかったが、それは相手にも言えることだった。どうせ、同じ時間置けば、同じだけ回復するのだから、待つことに、意味などない。
いや、意味がなくとも、それがいかに危険であるのかなど、誰でも分かるというのに。
私の脚は、まだまだ殺されてなんてないけどね。
悲鳴のような傷みを訴える脚に、坂下は激しく血液を流し込む。内出血など、関係ない。ようは、今動けばいいのだ。
根性にも、もちろん限界はある。
しかし、反対に言えば、根性があれば、傷みぐらいの問題は、どうにか出来てしまうのだ。
こっちは傷み、あっちは、ダメージ!!
イーブンではない、ダメージはどこまで言ってもダメージだが、傷みは前述のように、根性で我慢すれば、どうにかなることが大半なのだ。
そして、こと根性というものに関しては、綾香にすら、坂下は遅れを取る気は、なかった。
決心、と言うほど大層なものではない。坂下としては、しごく当然のつもりで、コンクリートの地面を蹴っていた。
チェーンソーだって、悠長に全快するまで待つつもりなどなかったはずだ。しかし、それでも、坂下の動きに、一瞬反応が遅れた。
時間が経てば、有利になるのは坂下の方のはず。いや、そもそも、脚が駄目なときに打撃が打てる訳がない。だから、チェーンソーもすぐに攻めるつもりだったのだ。
しかし、坂下の方が、その決断が一瞬早かった。その分、坂下の方が、速かった。
チェーンソーの鎖の射程の中に、坂下は迷うことなく踏み込んでいた。先ほど、脚にダメージを負った人間とは思えないほどの、突進力。
そこに迷いはなかった。
しかし、それでも、いくら迷いがなく、坂下の方が先に動けたとしても。
速かったとしても。
それでも、まだ、リーチというハンデを完璧に克服する、というには、無理があった。
坂下の攻撃がとどくよりも先に、チェーンソーの鎖は、坂下に向かって、振られていた。
続く