坂下の身体が、何かに巻き込まれるように激しくその場で回転していた。
脚は動いていない。先ほど、ミドルキックをがっちりと受けた所為で、脚がその場に縫いつけられたのだ。
身体の回転は、そこから坂下が生んだものなのだろう。動くのは、股から上だけ、それで身体を大きくそらして、チェーンソーの鎖を避けようとしたその動きが、回転しているように見えたのだ。
シュパアンッ!!
横薙ぎの鎖が、空気を裂いて突き抜けた。つまり、坂下はそのぎりぎりの攻撃を、回避したということだ。
が、そう思ったのも、一瞬だった。
パッ、と坂下から、赤い物が飛び散る。
そこで、やっと自由を取り戻したのだろう、坂下は後ろに飛ぶようにして、チェーンソーから距離を取る。
さすがのチェーンソーも、蹴りからの鎖のコンボの後では、素早く動くのは無理だったのだろう。自ら、後ろに数歩下がった。
坂下が顔をあげて体勢を整えると、観客から、歓声とも悲鳴ともつかない声があがった。
浩之達も、さすがに息を呑む。
坂下の額が、ざっくり切れて、そこから血がしたたり落ちていた。
正確に描写すると、右目の上、正面から見て左から右に、やや斜め上に、十センチ近くの大きな傷が出来ていた。
傷の深さは、浅いのか深いのかすぐには判断つかないが、坂下の動き自体には変化がないので、あまり深くはないのだろう。
坂下は、下から斜めに放たれた鎖を、身体を回転させてギリギリで避けたのだ。しかし、脚が動かなかった分、完全に回避することは出来なかった。その分が、傷という形で結果を残したのだ。
血の一つや二つで、坂下が騒ぐとは思っていない。肝が据わっているという意味では、浩之など相手にならないほどどっしりとしている坂下のことだ、気にもとめないだろう。
しかし、受けた場所が悪かった。
目の上、というのは、まずい。血が目をふさぐのだ。血というものは、あれで案外目にしみる。目に入ってしまえば、我慢など出来るものではない。
止血しない限り、血は流れて、坂下の目に入るだろう。余裕があれば、ぬぐうことも可能だろうが、撃ち合いの中で、そんな行動は取れないし、ただ対峙しているだけでも、緊張を生むような戦いなのだ。
ダメージ以上に、この傷は厳しい。浩之がそう考えるのには、1,2秒もあればこと足りた。その僅かな時間の後、現状が、動いた。
ガシャーーーーーンッ!!
試合場の二人は、金網から離れていたというのに、歓声もかき消す大きな音を立てて、金網がゆらいだ。
またチェーンソーが金網を叩いたのか、と浩之は思ったが、そうでなかった。
「てめーーーーーーっ、何好恵の顔に傷つけてんだ!!」
先ほど、金網を盛大に揺らした一撃、ヤクザキックを、その男はもう一度、金網に叩き付けた。金網が揺れているところを見ると、かなりの威力があるようだが、使い方を威力以上にかなり間違えているように思われるのだが。
「上等だ、出てきやがれ、俺が相手してやる!!」
どこの過激なファンだ、と思って浩之は男を見て、どこかで見たことある顔だなあ、と感じていた。
「ん、どうした、ラン。頭押さえて」
「……いえ、バカさ加減に、頭痛が少し」
ランと知り合いか、と思って、やっと浩之は、叫んでいる男のことを思い出した。
「確か……空手部の、御木本だったか?」
同学年なのだが、高校から一緒になった人間で、あまり詳しくは知らない相手だった。クラスも違うし、友達のグループも違えば、そんなものだろう。空手部に顔を出したこともあるのだが、話したことは一度もなかった。
てことは、空手部のランの先輩にあたるんだよな。
御木本に向かって放たれる、黙れこのバカ、という表情がありありと見えるランの鋭い視線を追いながら、浩之は多少なりとも御木本に同情した。
まあ、あまりがらの良い方法ではないとは言え、浩之よりもよほど必死に、坂下を応援している御木本に向かって、その反応は少しかわいそうではないのか、と浩之は思うのだ。
特に、坂下の顔に傷がついたことに、えらく憤慨しているのだ。坂下も、見えないがあれでも女の子だ、顔に傷が残って嬉しい訳がない。本気で坂下のことを心配している御木本は、あまり知らないが、かなり良い人間なのではないのだろうか、と浩之は、かなり間違ったことを思っていた。
もちろん、御木本があれだけ必死になるのは当たり前。好きな女の子の顔に傷がついて怒らないなら、男ではないだろう。いくら空手部のゴミと呼ばれても、そこだけは御木本も普通の男なのだ。
というか、今の今まで、ランは御木本がいることに気付かなかった。おそらくは、隠れるようにして見ていたのだが、坂下の顔に傷がついたのを見て、我慢できなかったのだろう。
ただ、それで試合場の中にいる坂下が喜んでくれるかどうかは、まったく別の話だった。むしろ激怒しそうなものだが。
試合そっちのけで、坂下はランに視線を送る。あいつ黙らせろ、と言っているのが、ランにもよく分かった。
しかし、ランも視線で、あんなのには近付きたくない、拳銃でも持っていれば物陰から撃ってもいいが、今の恥をさらしまくっている御木本に近寄るのはご免こうむりたい、となかなか器用に視線で返す。
「やっぱり空手部だな。ヤクザキック一つでも、なかなかの威力だよな」
何この人は見当外れなことを言っているのか、とランは思ったが、とりあえず浩之の視線は御木本の方に向いていたので、口以上に物を言っている目を見られることはなかった。
それは、カリュウの中の人なのだ。威力があって当たり前なのだ。しかし、正体がばれていないからと言って、素顔であそこまで騒ぐのはどうだろう、とランは苦々しく思う。
ただ、好きな相手のことを本気で思っているのだけは、少しは見直してやってもいいのでは、とランは思っていた。
基本的にゴミなのには変わりないが、それでも、評価すべき部分は評価すべきなのだ。もちろん、だからと言って近付きたくはないのだが。
ランはそんなことを思っていたのだが、浩之の評価は、まったく違っていた。それどころか、かなり評価をしていた。心情的なものだけではない、現実的な意味で、だ。
その外からの声に、チェーンソーも気をそがれていたのは、見逃せない部分だ。
その間に、止血は無理でも、血をぬぐうことぐらいは可能だろう。少なくとも、坂下が体勢を整えるには、十分な時間だ。
……まさか、そこまで考えた訳じゃないよな?
ただの外からの野次というか応援というか、試合にはまったく関係ないように見える行為。しかし、それが時間を稼ぐ方法としては、機能しているのだ。
見ている観客達には、ルールはない。物を投げ込むとか、試合場の中に入るとかをすればたたき出されるが、金網を蹴って叫ぶ程度では、よくあることだ。
だから、これはルール違反ではないのだ。ルール違反でなければ、何をやっても良い。それこそが、マスカレイドの真骨頂のはずだった。
ただ、俺なら、そう分かっていても、しない。
何故ならば。
「……御木本」
血をぬぐったやぶれかけのウレタンナックルを引きちぎった坂下から、地を這うような、低い声が、バカをやった男に向けられた。
「後から、折檻だ」
御木本どころか、観客達すら、そのプレッシャーに、一様に黙った。御木本本人は、気の毒なぐらいに、顔面蒼白だ。
ほんの少しでも、坂下の手助けにはなるかもしれない。よしんば、失敗しても何ら坂下に対しての不都合はない。
戦術としては、優れていただろうが、しかし、戦略としては、どうだろうか?
外から助けを受けた坂下が、激怒するのは、予測出来た事態だ。坂下のプライドを考えれば、当然のこと。
それを覚悟してまで、少しでも坂下の役にたとうとして行動したというのなら。
浩之は、御木本の男を評価してもいい、と思うのだった。
続く