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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(354)

 

 いらないことを、と坂下はにがにがしく思いながら、うっとおしい血を、手ではねとばす。

 ウレタンナックルは、マスカレイドに用意させたものだから別に気にもならないが、道着が上はやぶれ、下は血で汚れたりするのは、あまり好ましいことではなかった。

 とは言え、血で汚れるぐらい、よくあること。

 こう見えても、坂下は女の子で、そこらの汗くさい男達とは、違う生物なのだ。汗くさい道具というのは許せないので、こまめに洗濯しているし、汚れれば、あっさりと新しいものを買う。どうせ、空手以外にこれと言った趣味もないのだ。おしゃれをしていると思えば、道着の一枚ぐらい安いものだ。

 そう言えば、マスカレイドで試合をして、お金もらったんだっけ?

 道着の一枚どころか、これからは新品の道着を十枚ほど部室にストックしていても、まったく問題にならないぐらいのお金だ。

 親に知られれば、どうやって稼いだのか、問いただされそうな額が、坂下の机の中には入っている。

 いくらアナーキーな坂下とは言え、まさか拳で稼いだ、とは言えないから、一応秘密だ。まあ、坂下の親もなかなかのものだから、マスカレイドの話をすれば、案外素直に納得する可能性もあるのだが。

 と、お金の心配、というほど心配ではないのだが、が出来るほどには、坂下には余裕があった。

 血が出ること自体は、慣れたものだ。そうでなければ、この拳は作れない。これでも、かなり気を使っているのだが、血が出るぐらいは、よくあることだった。

 ただ、問題があるとすれば、それが目の上だということだ。

 坂下の身のこなしと、回避能力は疑うべくもないが、視界が血で遮られた状態で、どこまでチェーンソーの動きに対応できるだろうか?

 不利なことぐらいは、坂下も理解している。

 しかし、不利なことと、焦ることは、一緒にしなければならないという法もない。不利は不利と理解して、しかし、坂下は、言葉だけでない、平常心を保っていた。

 坂下の一言で、御木本も黙ったところで、チェーンソーも、そがれた気を取り戻したようだった。もっとも、坂下には、チェーンソーが、わざと自分に体勢を整えるだけの時間をくれたようにしか思えなかったが。

 まさか、これほどの人間が、横からのバカで気がそがれるなんて、そんな甘いことはないだろう。

 実のところ、チェーンソーは、というか、中の人はけっこう気をそがれたので、坂下の考えは買いかぶり過ぎなのだが、確かに、気がそがれたぐらいで、攻撃を止める理由にはならないのも事実。

 この、つかの間の時間は、意味のあるものだ。

 こちらの、傷の具合を、把握する為、か。

 坂下も、すぐにその理由に思い立った。

 坂下の目の上に傷を付けたのは確かだが、チェーンソーだって、ただそれだけで勝てるなどと、甘いことは考えてはいまい。

 ましてや、血が流れて目に入る前では、まったくもって意味がない。攻めても、ただ正面から攻める意味しか持たないとなると、うかつに攻めるのは危険だ。

 せめて、血が目に入るまで、それほどの怪我ではないのなら、それの見極めが終わるまで、チェーンソーは攻撃して来ない。

 まあ、その間に坂下が攻める、という行動も、正直封じられている以上、待つことに、チェーンソーの不利はない。あえて言えば、お互いのダメージの具合はどうだ、という部分ぐらいだし、それも時間を置けばどちらが有利、というのも測りづらい話だ。

 ちなみに、坂下が攻撃を封じられているのは、傷の具合が分からないという、同じ理由だ。攻めているときに目に血が入ったのでは、笑うに笑えないからだ。

 見極めるには、十分な時間が経った。

 血は、止まらない。まだ、目にこそ入っていないし、坂下は血の流れる筋を自分で作って、目に入らないようにしているが、それもいつまで持つことか。

 目に血が入るのは、時間の問題だった。

 それを見越してなのだろう、チェーンソーの構えに、また動きがあった。戻していた左半身の構えを止めて、また右半身の構えを取ったのだ。

 右利きの人間にとっては、左半身が自然なのは前も言った通りだが、今回の右半身の構えの真意は分かり易かった。

 坂下の右の目が血でふさがったとすると、そこに死角が生まれる。右半身ならば、そこに移動した後に、助走のついた左の攻撃が打てるのだ。

 回り込み易さだとか、右での攻撃を考えるのなら左半身なのだろうが、チェーンソーは、それよりも一撃の強さを考えたのだろう。

 とは言え、今までの攻撃は、先ほどの一撃以外は、左半身に近い構えから繰り出されている。ということは、これは坂下にとっても、チャンスにもなるのだ。

 何も考えずに、人は左半身を取っている訳ではない。相手が慣れていない、という部分を取れば、右半身の方が良いこともあるのだ。

 しかし、大半の人間は、左半身の構えを取る。

 何故なら、利き手である右を、助走をつけて威力を上げることが出来るからだ。そして、これが一番大きい理由なのだが、その結果、左半身でいることが多くなり、それに身体が慣れて、左半身で効率良く動くことを、身体が覚えるのだ。

 どんなり理屈をこねたところで、何度も反復運動を繰り返して、身体に慣れさせなければ、身体というものは自由に動いてくれない。

 反対に、理屈が分からなくとも、何度も同じ動きを繰り返すことによって、身体は効率の良い動きを、自然と取るようになるのだ。

 チェーンソーが、どこまで右半身の構えに慣れているかは分からないが、ほんの僅かなでも、左半身のときよりも、動きが鈍い可能性は、高い。

 血が目に入れば、死角が出来た上に、遠近感を無くす坂下の不利は動かない。

 しかし、ただ右半身の構えを取った相手を相手取るのならば、坂下の方が、対応に慣れていないのと、動きに慣れていないのを差し引いても、僅かながらでも、有利。

 まあ、どちらにしろ、有利とか不利とか、大して関係なく。

 坂下は、やられっぱなしで終わるほど、人間出来ていない訳なのだが。

 坂下は、前に構えた腕をゆっくりと下に動かしながら、同じくゆっくりと、そして大きく、息を吸う。

 下に向けられた掌は、防御には向かない。そのかわり、どうしても傷を見て、上に視線が行くチェーンソーの視界には、入り難い。

 どうせ、鎖相手では、受けなどほとんど通用しないのだ。坂下は、回避と攻撃だけを意識すれば良い。

 当たったら、そのときはそのときだ。少なくとも、同じだけのダメージを、相手に当てればもとは取れる。

 酷く大ざっぱで、乱暴な考えだったが、それこそがチェーンソーが恐れて、坂下に後一歩踏み込んでこられない理由でもある。

 相打ちでは、駄目なのだ。もし、相打ちになったとき、坂下が残るか、チェーンソーが残るか、確率は半々と言ったところだ。それは、チェーンソーの望むところではない。

 しかし、坂下は、望むところだった。当たれば、自分が勝つ。理屈でも思いこみでもなく、信念が、それを可能にするのだ。

 不可能にねじ込む、可能性。

 それがあるからこそ、坂下は、素手で防具もつけずに、武器持ちの、それもマスカレイドで無敗を誇る最強の相手と戦うことが出来るのだ。

 そうやって、無理矢理現実にそれ以外のものをねじ込むように、坂下はチェーンソーに向かって動いた。

 素早く距離を縮めながら、坂下の左腕が、跳ね上がった。

 

続く

 

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