坂下の左腕が、跳ね上がった。
しかし、その距離は、遠い。腕を動かしたところで、チェーンソーの右手を捉えることすら出来ないほどの距離が離れていた。
それでも、人間とは不便なもので、目の前に動くものがあれば、それを追ってしまう。動体視力があればあるほど、そうなのだ。
チェーンソーの目は、フルフェイスのヘルメットで隠されているが、それでも、見えない目が坂下の手を追う。
シュバッ!!
その瞬間、チェーンソーは後ろに飛んでいた。その、すでに脚がなくなった場所を、坂下の鋭いローキックが通過していた。
「……え?」
見ていた浩之には、何が起こったのか、すぐには分からなかった。
やったことは、しごく単純。腕を動かすことによって、そこに相手の視線を集中させて、それをフェイントにして下の攻撃を出すというものだ。
うまい下手の差こそあれ、基本と言えば基本。有効ではあるし、何より坂下の動きは、うなるほどのものだ。
だが、それでもおかしかった。
坂下がいたのは、手が届かない距離だったはずなのだ。ローキックは、それは拳よりは距離は取れるが、それでも届かない距離があったはずなのだ。
しかし、ローキックを繰り出した瞬間には、チェーンソーが脚を上げて後退しなければならないほど、近付いていた。
フェイントの攻撃を、チェーンソーが避けただけ。普通の人間には、それ以上の情報は見えなかっただろう。実力が上がって来たからこそ、その地味ながらも、驚異的な技を、浩之は認識できるようになっていたのだ。
後ろに下がりながらも、チェーンソーは拳を繰り出す。しかし、斜めに振り上げられるような軌道に、すでに坂下の身体はなかった。素早く、その場から上半身が逃がされていたのだ。
とは言え、まだ右腕の攻撃は残っている。無理に攻めても無駄だと判断したのか、坂下はあっさりと後ろに下がろうとしていた、ように見えた。
前に……いやっ?!
チェーンソーは、残った右の鎖を、下に振り下ろすように放っていた。右半身の構えからとは言え、それでも十分なスピードを誇るその一撃が、坂下によって、あっさりと避けられる。
いや、これは、前進を止めた、最初の攻防と一緒だった。
言ってしまえば大雑把に、チェーンソーの間合いを読んで、相手の攻撃をやり過ごす。言って出来るものではない。坂下の、思い切りの良さが生み出す回避方法。
だが、そんなことは関係なく、見ている浩之は混乱していた。
ローキックは、射程に入る訳がなかったし、先ほども簡単に後ろに下がるのか、と思った瞬間に、前に出た、と感じたのに、チェーンソーの攻撃を止まってやり過ごしていた。
チェーンソーも、それにつられるように、右の攻撃を出してしまったのだ。攻撃をやりすごされると、いかなチェーンソーでも、危ない。
と、言い切れないのが、このチェーンソーの攻撃だった。
間を置かずに、チェーンソーとの距離を縮めようとする坂下。しかし、チェーンソーは、その坂下に向けて、撃つ鎖を、持つ。
チェーンソーの腕が、素早くチェーンソーの首に巻かれていく。普通なら、そんな動きに何ら意味がないどころか、次の攻撃の阻害にしかならないだろうが、しかし、チェーンソーには、そこからの攻撃があるのだ。
フルフェイスのヘルメットに鎖を巻き付けるようにして、自分の頭の後ろから繰り出される、まさに想定外の鎖。
同時に、ありえないチェーンソーの攻撃に、合わせることをやってのけるのが、坂下だった。
坂下の右腕が、そのチェーンソーの鎖に、当たる。
ジャッ!!
坂下の腕をするようにして、その軌道が、変化させられる。坂下は、チェーンソーの鎖を、受けることが出来るのだ。十分な助走距離がある鎖は不可能でも、普通はありえない、首に巻かれるようにして出される鎖は、どうしても、普通よりも威力が劣る。そこを、坂下は狙ったのだ。
ジュバッ!!
しかし、今度は、坂下が後ろに下がって、チェーンソーのローキックを避ける。
「……まじかよ」
チェーンソーのローキックは、坂下の接近を止める為に繰り出されたものではあったが、ぱっと見ただけでも、坂下と同等か、それ以上のレベルだった。だからこそ、坂下は下がって逃げるしかなかったのだ。防御が間に合っても、ダメージは受ける。それを避けなければ、と思うほどに、鎖ではなく、そのローキックを警戒したのだ。
浩之だって、チェーンソーは全てのレベルが高い、とは思っていたけれど、まさかローキック一つで、うなるほどのものを見せつけて来るとは思っていなかった。装備を合わせての強さだと思っていたのだ。
坂下は、その力量をちゃんと把握して、後ろに下がったのだ。下がるしかなかった、と言えるかもしれない。相手の攻撃をことごとく無効化した後の、あのチャンスを潰すのは痛かったのだろうが、仕方ない。防御すれば動きは止まるし、それでは、せっかくのチャンスの意味がない。
「ああー、というか、色々思う場所が有りすぎだろ」
「……同意です」
「本当ですね、どこから考えていいものか」
チェーンソーの打撃の質をどうこう言いたいのだが、坂下の動きだって、言いたいことは色々あるのだ。葵とランは、それに同意する。
「あー、綾香。すまないが、解説よろしく」
他は、何とか説明もつくのだが、坂下の動きは、あまりにも不可解過ぎて、浩之には説明出来ない。仕方ないので、綾香に説明を求めた。
ただ、ちゃんと説明してくれるかどうかはかなり微妙なんだよなあ。
何が起こったのか分からなかった、というのは、ないだろう。前までも、綾香の目は異常だったが、最近の綾香は、本当に神掛かっている。外から見ていて、何が起こったのか分からないということはない。
問題は、綾香に、説明してくれる気があるかどうかだ。
「もう、浩之。私に頼ってばかりじゃなくて、少しは自分で精進しないと」
幸い、今の綾香は、素直に教えてくれそうだった。というか、どこか嬉しそうに話し出した。
「簡単に説明すると、フェイントなんだけど」
「いや、簡単過ぎだから。それじゃ説明出来ないから聞いてるんだが」
「えー、まったく、面倒ね」
前言撤回。真面目に説明する気はかなり薄いのかもしれない。
結局、ただ浩之を虐めたかっただけなのか、綾香は素直に説明を追加する。
「サッカーのドリブルと似たようなもの、とか言ったらいいのかな?」
追加、と良いながら、説明の最初に口にしたのは、類似品の話だった。だから、それだけでは、聞いている者はさっぱり理解できなかった。
むしろ、皆の顔に浮かぶハテナマークに気を良くしたように、綾香は、とつとつと何が起きたのか、説明を続けた。
続く