「サッカーのドリブルと似たようなもの、とか言ったらいいのかな?」
「いや、さっぱりわからないんだが」
綾香の優しくない説明に、すでに義務とばかりに、浩之がつっこみを入れる。
「もう、少しは頭を使いなさいよ」
「頭というか、目だろ?」
考えただけで全部分かるというのなら苦労はしない。そういう手順を踏むこともあるが、これに関しては、説明を受けないと理解できそうになかった。
届かないと思った攻撃が届き、当たると思った攻撃が当たらない。見ている者すら混乱するのだ、相対しているチェーンソーは、どれほど混乱しているだろうか?
しかし、その混乱の中でも、きっちり反撃して、チェーンソーは坂下を後ろに引かせた。多少無理でも、そこで倒せると思えば、引かなかっただろう。
いや、そもそも、もし見ている者すら混乱するその動きが、実際に坂下の技なのだとすれば、それは出し惜しみしてもいい技で、出した以上、それで決めなければならないはずなのに。
それなのに、坂下は後ろに下がった。ローキック一発では、例え脚にダメージが当たっていたとしても、耐えられるはずなのにだ。
単に反射的に後ろに下がってしまったのかもしれないし、単なるローキック、とこちらが思っていても、その実は違って、それに必殺の威力があるから下がったのかもしれないし。
もっと怖ろしい考えで言えば、これぐらいのチャンスは、簡単に作り出せる、と思ったから後ろに下がったかもしれないのだ。そこからは、見なくとも想像がつく。
坂下にとっては、出し惜しみするほどの、技なのではないのかもしれないのだ。
「まあ、仕方ないか。耳かっぽじって良く聞きなさいよ?」
あまり似合わないセリフをつけながら、綾香は、少しだけ分かり易く説明してくれる。
「上半身と下半身の動きを別にしてるのよ」
「いや、最初からそう説明しろよ」
簡潔で、実に分かり易い説明だった。
上半身が前に来ているのを見て、前に出る、と相手が判断したころには、下半身は後退を始めている。
どんなにねばっこい下半身の力があったとしても、動きが逆になっては、まったく意味を成さない。坂下は意識的に、それを相手に起こさせたのだ。
「まあ、サッカーやバスケットとかでは、左右に振るんだけどね」
前後にゆらせる、というのは、案外難しい。左右に素早く動ける人間でも、前後に同じスピードで動くのは、かなり難しい。
しかし、坂下はそれをあっさりとやっけのけていた。
聞いてみれば、単なるフェイントなのだが、それは、思う以上に、深い。
それは、チェーンソーが前に出なくなったことでも明かだった。うかつに出れば、とっさでも考えても、反応してしまう。また自分で打破すればいいだけなのだが、不利は間違いないところなのだから、前に出ないのは当然だ。
一方の坂下にも、余裕がある訳ではないが、しかし、あせり、というものは見えない。先ほどの攻防を、自分でかみしめて、改善点を吐き出そうとしているようにすら見える。
試合中に悠長なこと、と言えるかもしれないが、こんなギリギリの戦いの中で、それができるというのは、どれほどの余裕なのだろうか?
これで、また振り出しだ。チェーンソーには、防具と武器があるが、坂下は、その鎖すら受ける高度な防御能力と、高いレベルでのフェイントと、何と言っても、特記すべき度胸で、それに渡り合う。
ここは、武器持ち相手に、振り出しまで持って行った坂下を誉めるべきところか。
「てか、坂下のヤツ、鉄壁の守りがあるくせに、そんなことまで出来るのかよ」
坂下の受けの凄さは、今更言うまでもないとしてだ。
器用、という言葉とはあまり縁のなさそうな坂下だが、これは頭の中にある坂下のイメージを変更する必要があるかもしれない。
「葵との試合のとき、これよりはかなり精度は落ちるけど、使ってたじゃない」
「あ」
言われてみれば、そうだった。
緊張癖が取れて、十分に実力が発揮できるようになった葵との戦い。あのとき、葵はどちらかと言えば押していた。
それが覆ったのは、坂下の前進するフェイントに、葵が引っかかったからだ。
もともと、フェイントや受けで、相手の隙を突く戦い方を、坂下は選んでいたはずなのだ。最近は、あまりにもその打撃のインパクトが大きくて忘れそうになるが、戦い方が変わった訳ではない。
「そうなんですか? イメージと、違いますが」
「確かに、私のイメージは、どちらかと言うと打撃の力で無理押ししてくるようなイメージの方が違和感を感じますね」
最近知り合ったランは力押しをする坂下をイメージとして持っていて、付き合いの長い葵は、むしろ力押しのイメージを持っていない。
戦い方が、最近変わったということなのだろうか?
ありえない話ではない。ずっと同じ戦い方をしなければならないという法はない。それどころか、成長期の今、戦い方が変わるのは、むしろ必然だろう。
だから、変わった、というよりは、元に戻ったと言った方が正しいのだろうが。
「いや、俺も言われて納得したんだが……そう考えると、坂下らしいって言えば坂下らしいのか」
「まあね。……でも」
綾香は、首をかしげていた。納得できない、と表情が口ほどに物を言うランにも負けないほどに、その表情が言っている。
「ん、どうかしたか?」
「ううん……いや、ここは否定じゃなくて、肯定ね」
神妙な顔つきになった綾香を見て、浩之はどうしても不安しか感じれなかった。いや、いつもの凶悪そうな笑みに比べれば、平和そのものの表情ですらあるのだ。
ただ、その表情は、どうしても、胸の奥を、ざわつかせる。
綾香の表情から、恐怖を感じずに、ただ不安だけを感じる、というのは、珍しいを通り越して、浩之には異常に思えた。
「フェイントとか使うのは、別に好恵らしいからいいのよ。ただ、おかしいのよね」
「おかしい?」
「そ、おかしい」
話ながらも、綾香の視線が、ずれない。真っ直ぐに、試合場の真ん中で対峙している二人に注がれている。横に浩之はいて、浩之と話しているはずなのに、まったく存在を忘れているかのような。
それほどに、綾香の視線が、真剣さを、帯びて来たのだ。
「好恵って、これほどのレベルだったっけ?」
この感じは、不安、ではない。それを、人は、不吉、と呼ぶ。
続く