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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(357)

 

 綾香の言葉は、聞いている者を、不吉な気分にさせるものであったが、言われた坂下にとっては、最大の賛辞だっただろう。

 それは、綾香が知っている坂下の実力を、今の坂下が越えている、つまり強くなっているということを表すからだ。

 ただ、それは、試合中の坂下の耳には届かなかったし、聞こえたとしても、坂下にはコメントもなかっただろう。何より、今は、そんな余裕がない。

 綾香をうならせたのは、事実凄いことではあるが、それでも、坂下は攻めあぐねていた。

 このまま戦うことは、可能だ。

 重く、そして速い打撃、全てを砕こうかという拳だけではない、蹴りでも肘でも、直撃ならば相手の防具を打ち抜くことは出来るだろう。

 しかし、直撃でなければ、難しい。うまく受けられてしまえば、普通ならばダメージを与えられるので十分な攻撃になる場合でも、下手をすれば無傷で済む。

 だから、坂下は、攻めるしかないのだ。攻めて攻めて、隙を作らせて、そこを叩く。クリーンヒットを狙うには、それしかない。

 その為に、坂下は色々と手を打って来た。

 まだ見切った訳でもないのに、チェーンソーの鎖を止まって待ったり、威力が弱いと見るや、普通はあり得ないはずの受けを、鎖相手に敢行してみたり、フェイント一つにしても、普通ならこれで試合が決まるようなものばかりを、この戦いに投入している。

 坂下は、それのどれも失敗していないのだ。

 それでも、チェーンソーは、まだ立ったまま、坂下と対峙しているのだ。

 チェーンソーに言わせれば、おそらくはまったく反対の言葉が返って来るだろう。チェーンソーも、そのどれで試合が終わっても不思議ではない攻撃を、何度も繰り出している。そして、それには失敗していないはずなのだ。

 だが、まだお互いに、致命傷を与えられない。

 一般とは、その状態の認識ですでにずれてはいるのだ。坂下が脚に受けた鎖も、チェーンソーが受けたボディへの一発も、どちらも試合が終わるには十分なもの。

 それでも、二人が立っていて、少なくとも坂下にとっては、まだまだ、終わりの見える状況ではないのだ。

 このまま、攻防を繰り返すことは、だから坂下にとってみれば可能なこと。

 ただ、そうなったとき、どちらが勝つのか、という話には、問題があった。

 今のところ、坂下の目から、冷静に実力を分析して、半々、と言ったところだろう。装備分、多少、坂下の方が不利かもしれない。

 この際、有利不利は関係ない。不利ならば、それを力で、技で、根性でねじ伏せればいいだけのこと。

 だが、少なくとも、その中のいくらかは、すでに坂下の中には足りない。

 ……自分が出来ることは、もうほとんどやり尽くした感じだしねえ。

 これほどの相手をむこうにして、互角以上に渡り合っているのは、坂下本人ですら、予想外と言っていい。渡り合う自信はあったが、それと現実とは話が違う。

 多少、いや、かなり厳しい試合運びになるだろう、そう思っていたのだ。

 だが、その為には、自分にある手札は、出し惜しみなど出来なかった。もとより、そんなつもりもなかったが、ただ、出し切る、というのは、一つの問題を出す。

 ネタが、ないのだ。

 攻めて、相手の一瞬の隙を作る為の、相手の予測を上回る、その小さな一手が。

 私は、こんなんだけど……

 チェーンソーが、一度遠くに離れて、仕切り直しの為に構えを取っているが、それが右半身のままだが、その角度が浅くなっている。

 前後の動きや、高い威力を欲しがるときは、半身の角度が深くなる。反対に、半身の構えが浅くなるということは、威力よりも、切り返しのスピードを、そして、左右への動きを重視したということだ。

 今は、距離があるから、坂下は目に入ろうとする血を、手で払うことが出来る。

 しかし、それでも、時間の問題だった。右目に血が入ってしまえば、坂下だって、我慢出来るものではない。右の視界は、極端に悪くなるだろう。

 血が入る前は、生半可な攻撃は、坂下に受けられる可能性があった。だから、威力重視の構えを取っていたのだろうが、その心配も、今に無くなるのだ。

 片目しか使えない状態では、問題なのは視界が狭まるだけではない。もちろん、その出来る死角に入り込まれるのはやっかいで、それをチェーンソーが狙っているのは間違いないのだが、それよりも怖ろしいのは、遠近感が狂ってしまうことだ。

 距離を測れているからこそ、打撃が威力を出したときに当てるタイミング、いわゆるヒットポイントを最適の位置に出来るのだ。

 それに、坂下の受けも、極端に難しくなる。相手との距離が測り難くなれは、難しくなるのは当然。鎖を受けるなど、ほぼ不可能と考えてもいいだろう。

 相手の死角に入り込み、遠近感が狂ったことで驚異であった受けを封じられた状態の相手に、手数で押す。そもそも、受けられさえしなければ、手数重視の鎖でも、十分に人間は倒れるのだ。

 状況は、坂下に不利になりつつある。

 しかも、恐れるべきことは、状況だけではない。

 私はネタ切れでも、おそらく、チェーンソーには、まだ残っている。

 攻めを決める、その一手、坂下はほぼネタ切れだが、それを、チェーンソーはまだ持っている、と坂下は読んだのだ。

 それが、例えば今までどちらも狙おうとさえしない組み技などであれば、むしろ助かる話なのだが。

 次は、隙をついて組み技、そう予測する人間は多いだろう。いや、見ている方はずっとそう思っているはずだ。

 坂下は、守る方はともかく、攻める方としては、組み技はうまくない。しかし、チェーンソーはそうではないのだ。さらに、今まで、組み技の片鱗すら見せていない。

 ここで使えば、さぞ坂下の意表を突けるだろう。

 と、考えるのは、浅はか過ぎた。

 水に脚を取られたり、よほど意表でも突かない限り、坂下からタックルでテイクダウンを奪うのは至難の技だ。こと、相手のタックルをさばくことに関しては、坂下はこのまま総合格闘技の、プロのリングに上がってもやっていけるだけのものを持っている。

 それどころか、今の坂下ならば、そのまま、プロでも通用するかもしれない。だから、坂下は組み技をほとんど恐れない。隙を突かれない限り大丈夫であるならば、それは打撃と何ら変わらないのだ。

 むしろ、ここでチェーンソーが、組み技に逃げてくれるようならば、逆にチャンスなぐらいだ。打撃では、鎖を持ってしても、坂下に勝てなかった、と言っているようなものなのだから。

 だが、違うだろう。

 組み技は、絶対に来ない。組む余裕を、坂下は与えるつもりはないし、そんな余裕があるのなら、鎖を振った方が、確実に早いのだ。

 チェーンソーが、それを分かっていないはずがない。分かっていても、逃げてしまう場合もあるが、チェーンソーには、そんな甘さはないだろう。

 だから、危険なのは……

 しかし、それ以上、坂下が悠長に考えを巡らせる時間は、なくなった。

 僅かな、しかしとっさには我慢出来ない痛みを、坂下は、右目に感じたのだった。

 

続く

 

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