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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(358)

 

 血が、目に入った。

 そう認識した瞬間には、坂下は動いていた。いや、それすら遅いぐらいだった。

 坂下が動くよりも前に、チェーンソーはすでに動いていた。感じてから動くなど、時期を逸したにもほどがある。

 坂下との距離が詰まる中で、右腕に隠された、チェーンソーの左が、動いたのを坂下は感じる。目でないのなら、勘、と言いたいところだが、身体全体の動きで判断しているので、決して勘ではない。ただ、説明できないので、勘と同じようなものだが。

 もう、目では確認できない。しかし、それは、単に普通に生まれる死角ではなかった。

 ここに来て、やっと坂下は、チェーンソーの構えの真意に気付いた。道理で考えると、どうしても納得できなかった部分が、カチリと当てはまる。

 この為の、右か!!

 左の威力を上げる為の構えではなかった。自分の右で、坂下の左目の視界を遮る為の構えだったのだ。

 そうとは気付かなかった坂下が、うかつだったのだ。

 が、坂下だって座してやられるつもりではなかった。素早く、左半身の構えを深くする。ほとんど真横の位置取りだ。

 遠近感では不便になるが、少なくとも、死角に、まったく見えない箇所に潜り込まれる、という最悪の事態からは、これで逃れられる。

 が、次の瞬間、坂下の背筋に走るものがあった。

 坂下は、今度こそまったく勘と言っていいそれにしたがって、横を向いた状態のまま、ダッキングの様に、上体を曲げる。

 ヒュンッ!!

 その背中ぎりぎりを、右の鎖が、袈裟上げに繰り出されていた。

 左はフェイクか!!

 左に意識を振っておいて、前に出しているはずの右から繰り出す一撃を、坂下はギリギリで避けていた。二人の距離があるのが幸いした、でなければ、わずかな差で捉えられていただろう。

 ほとんど手首をひねるだけの動きで、鋭い鎖の動きに変化させる。もし、普通の状況で受ければ、坂下としては、受けきる自信のある攻撃だったが、今は、受けにまわす余裕も、完璧に相手を捉える遠近感もない。

 紙一重で右を避けた坂下だったが、余裕はなかった。同時かと思えるほどのスピードで、左の、今度は十分な威力を持った鎖が打ち出されたのだ。

 上から、袈裟切り。今の坂下にとっては、一番避けにくい位置を狙って振り出されていた。

 逃げる余裕は……

 バシィィィィィッ!!!!

 観客が目を背けたくなるような音が、響いた。

 錐揉みするような動きで、坂下は後ろに下がっていた。はね飛ばされたようにすら見えた。

 それでも、坂下の足取りは、確かだった。しかし、その左腕が、みるみるどす黒く変色していく。

 かわし、切れなかった。それを見れば、誰しもが、そう思っただろう。

 だが、それを悠長に観戦するような時間は、誰にもなかった。坂下にも、チェーンソーにすら、それはなかったのだ。

 かわし切れなかったのは確かだが、反対に言えば、チェーンソーとしてみれば、決めきれなかったのだ。

 さらに、一撃が必要。そう判断するよりも先に、チェーンソーは動いていた。

 左を振り切り、身体の上で回転させスピードを保持したまま、チェーンソーは間を置かずに、坂下に左の鎖を放っていた。

 坂下の体勢は、ほとんど正面を向いていた。先ほど後ろに飛ばされた動きで、バランスこそ崩さなかったが、真横を向いて構える、という時間はなかったのだ。

 距離が開いているから、死角というほど完璧なものではない。だが、十分なスピードの乗った鎖が、視界としては絶望的な方向から放たれるのだ。

 後ろには、もうほとんど避けられない。いつの間にか、かなり試合場の端の方にまで追いつめられていたのだ。

 後一度は、後ろに避けることが出来るだろう。しかし、その後が、ない。

 坂下は、後ろを見ている訳でもないのに、自分の位置を把握して、何と右に動いて、避ける。自分としては死角になる、さらに言えば、錐揉みするような動きで、さきほど保持した真横の視界すら消えているのだ。

 が、それでもチェーンソーの鎖は空を切っていた。坂下は、鎖の上を、器用に飛んでいた。

 しかし、上は、危険だった。

 身体が地面から離れれば、後は初速の動きを消費するしかない。方向を変えるなど、不可能なのだ。

 一番の死角である右下に攻撃が来る、とまで読んで動いたのは素晴らしかったが、例え必殺の一撃を撃った後でも、チェーンーが次弾を用意するのに、さほどの時間は必要ない。

 例え、来ないと思っていた方向であろうとも、チェーンソーは素早く目標を補足し、宙にある坂下目がけて、右の一撃が繰り出される。

 これが、左側に動いていたのなら、右での追撃は難しかっただろう。左の一撃の為に身体を持って行ったチェーンソーの右は、全力とは言えなかった。

 が、全力には届かなくとも、坂下の不完全な受けを許すほど、甘いものでもない。

 落ちてくる坂下を、鎖は捉えるべく、宙を駆け。

 ヒュパッ!!

 空を切った。

「?!」

 チェーンソーの動きが、不自然になった。これで決めるつもりで放たれた一撃を避けられたのも大きいが、何より、それは想定になかった。

 いや、空間的に、ありえないはずだった。

 それもそのはず。試合開始時には、そこはありえない空間だったのだ。

 だが、坂下は、そこに、空間を作った。単なるデモンストレーションの様に放たれた拳が、その頑強なポールを曲げ、普通ならばありえない空間に、金網はあったのだ。

 作戦では、なかった。とっさに、坂下はそこにあったものを利用しただけだ。作為的なものがなかったからこそ、チェーンソーは、慣れているはずの、地形の利用を、坂下に許したのだ。

 金網に手をかけた坂下は、渾身の力で自分を引き上げると、チェーンソーの鎖を回避、そのときには、すでにポールに足をついていた。

 苦笑するしかない。坂下の、もっとも嫌いな相手の動きを、ここに来て真似なければならないなど、バカらしいにもほどがある。

 親友、と言っていいのだろう。しかし、坂下にとっては、この世で一番嫌いな相手であり、そして、無視など出来ようない、彼女。

 あえて言わずとも、誰かなど、分かろうというものだ。

 しかし、そういう点も含めて。

 坂下は、一切の躊躇なく、ポールを蹴り、チェーンソーに向かって、跳んだ。

 

続く

 

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