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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(359)

 

 坂下の脚が、チェーンソーの身体に吸い込まれるように伸びる、それよりも先に、チェーンソーの鎖が、坂下の身体に当たる、刹那の時間の出来事。

 

 ランには、息を呑む時間すらなかった。

 気付いたときには、チェーンソーの鎖は空を切り、ほぼ同時に、坂下はチェーンソーに向かって、跳んでいた。

 ガコンッ!!

 音が、後からランの耳に入る。そう錯覚するほど、坂下がポールを蹴って跳ぶ速度は速かった。否、速過ぎる。

 マスカレイドでは、空中戦を得意とする選手は、かなりとまでは言わないが、そこそこの数がいる。上のレベルになれば、誰もがやられるかやるかはしている。

 蹴りのみを技として使うランも、空中戦は得意な方だった。もとより、男よりも軽い体格は、跳んだり跳ねたりには向いている。瞬間の跳躍力では、腕力分負けることもあるが、軽い、というのは、スピードに関してはやはり有利なのだ。

 その中でも、やはり空中戦を一番得意としているのは、やはりクログモだろうか? バリスタも、その体格に似合わず、空中戦を得意としているが、どちらかと言えば、名前の通り一直線に跳んでいく動きしかしない。

 ただ、速さで言えば、変幻自在なクログモよりも、パワーで跳ぶバリスタだろう。タックルも、ほとんど地上すれすれを跳んでいるのでは、と思うようなスピードをたたき出すのだ。空中になろうと、その前進の力は弱まったりしない。

 しかし、それと比べても、いや、マスカレイドの選手誰と比べても、坂下の跳び蹴りは、遜色ないどころではない。

 一番、速かった。まるで、後のことをまったく考えないような、特攻だった。着地するとか、そんなことをまったく念頭に入れていないように、一直線に上から蹴り降りたのだ。

 そのスピードで避けられれば、後に待つのは、地面への激突か、隙だらけの身体を相手にさらすことになる。どちらにしろ、ピンチを通り越して、終わりだ。

 だが、そんな当たり前の判断すら、やはり、ランには出来なかった。

 そんなことをぐだぐだと考える暇が出来るような時間は、その跳び蹴りにはなかったのだ。

 しかし、ランはそうであっても、チェーンソーには、とっさにでも、それに反応するだけの能力がある。

 それを持ってしても、もうすでに遅い、という結論だけだった。

 足場にしたポールが、またそこから曲がるほどの強い勢いで、坂下は飛び込んできたのだ。前に拳でも出せば、自分から当たって終わるだろう、無茶過ぎるスピードで、だ。

 坂下は、ポールを蹴り曲げてからチェーンソーに届く僅かな時間で、体を空中で入れ替え、跳び蹴りの格好にまで持って行っている。それすら、奇跡のような動きだった。

 その奇跡は、チェーンソーにはなかった。考えるのでは、遅すぎたのだ。

 だが、考えた時点で遅いのならば、考える前に、動いていればいい。ある意味、格闘家というか、身体を動かす者の理想、とも取れるそれを、チェーンソーは実践していた。

 鎖が、飛び込んでくる坂下に向かって、振り上げられていたのだ。正面からは捉えられないかもしれないが、チェーンソーに蹴りを入れる前に、その側面を捉えるほどの、やはり常軌を逸したスピードで。

 どうしてそうしたのかは、本人にすら分からなかったかもしれない。しかし、現実として、チェーンソーは、分かっていたように追撃の為に用意された左を、振っていたのだ。

 それは、右の一撃だけでは、坂下を捉えきれない、と無意識の内に感じていた所為なのかもしれない。

 チェーンソーの左は、坂下に、当たる。

 

 それが、ランだけでなく、観ている者が認識出来た、次の瞬間だった。

 ビシィィィィッ!!

「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

 チェーンソーの鎖が、再度坂下の左腕に当たるのと、坂下が叫んだ音が、同時に起こり。

 やはり、観ている者にとっては、同時に。

 ドッ!!!!!

 チェーンソーの身体が、後ろに、問答無用にはね飛ばされた。

 上から、斜め下に突き落とすような跳び蹴りが、チェーンソーの腹部に命中し、当たった角度とまったく同じ角度で、チェーンソーの身体が、後ろに跳んだのだ。

 それは、地面にはね飛ばされる、とでも言った方がいいのか。

 一定の高さまでは、脚が落ちるように後ろに直進したかと思うと、耐えきれなくなったように、そのまま後ろ向きに倒れて。

 ザザザザザザザーーーーーッ

 コンクリートの上を、チェーンソーの倒れた身体が、引きずられるように滑る。そうやって、試合場をほとんど横断するような所まで地面を滑って、やっと、チェーンソーの動きは止まった。

 それとは比べものにならないほど地味に、坂下はさっきまでチェーンソーが立っていた場所に、倒れるように落ちた。

 シンッ、と試合場が、本当の意味で、静かになる。

 何が起こったのか、誰もの理解を超えていたのだろう。

 綾香だけが、にっ、と口元をゆがめるのを感じながら、綾香を除けば、一番最初に、ランは状況を把握しようとしていた。

 そういうことが、あるかもしれない、と思っていた分、他人よりも、早い。

 しかし、受ける衝撃は、誰よりも、大きかった。その大きさ分、気付かされた、と言った方が正しいのかも、しれない。

 ヨシエさんが、やった……

 自分が喜んでいるのか悲しんでいるのかそうですらないのか、それすら今のランには、分からない。

 しかし、何が起こったのかだけは、分かっていたのだ。だからこそ、ランは、自分の感情に結論を出せずにいた。

 倒れたどちらも、動かない。

 しかし、分かる。どちらが勝ったのかなど。

 坂下の跳び蹴りが、チェーンソーに直撃したのだ。試合場の反対まではね飛ばされるような蹴りを受けて、立てるはずがない。

 普通、跳び蹴りは、モーションが大きく、避けられる。ましてや、これだけのレベルの高さだ。普通なら、決まらない。

 だが、それを、坂下は無理やり決めたのだ。

 まず、来ない、と思っていた跳び蹴りだったのは大きい。ないと思っていた位置からだというのも大きい。そして、そのスピードが、まず普通の跳び蹴りとは完全に違う。足場が壊れるほどの蹴りの威力で一直線だ、スピードがおかしいのも頷ける。

 だが、そんなことは、些細なことだった。

 一番大きかったのは、そういう問題ではない。

 坂下は、チェーンソーの鎖を、受けた。というよりも、チェーンソーの鎖の方が、先に坂下を捉えた、のだとランは考えていた。

 いくらスピードがあっても、跳び蹴りという距離を稼げるものでも、それでもチェーンソーの鎖の方が速い。それこそが、チェーンソーの強さなのだから。

 事実、坂下は鎖を受けていた。

 一度目の攻撃を受けた痕なのか、倒れた坂下の腕が、みるみすドス黒く変色していく。

 それでも、一発目は受けきったのだろう。腕にダメージは残しても、それ以外にはダメージを伝えなかった。

 しかし、跳び蹴りよりも先に当たった攻撃は、本当の意味で、受けきれなかった。

 直撃、ではないだろう。とっさに腕では受けたようだが、それがどれほどの効果があったのか、ランには疑問だった。

 しかし、坂下は、もともと避ける気など、なかったのだ。

 相打ちであればいい、そう考えたとしか、ランには思えなかった。

 そう、ランは、間違っていない。それこそ、坂下の考え。

 相打ちならば、問題ない。相手を、その一撃で倒せるのならば、相手の攻撃を受けることを、坂下は躊躇しなかった。

 バカみたいな、しかし、相手としては、怖ろしいとしか言い様のない、度胸。

 躊躇ない動きが、チェーンソーに、回避ではなく攻撃を選択させた。その結果が、これだ。

 だが、試合の結果はともかく、いや、試合の結果がこうだからこそ、ランは、試合場の状況を理解したにも関わらず、今度は自分の頭の中の混乱を、押さえることが出来ない。

 目は、自然に浩之の方に向く。

 それこそ、まったく意味もないのに。

 ランの混乱とは、まったく関係ないところで、動きがあった。

 おおおぉ?!

 観客達が状況を理解するよりも先に、片方が、動き出したのだ。だから、観客の歓声は、どこか間の抜けたものとなった。

 ずるり、と腕をひきずるようにして、坂下は、上体を起こしていた。

 

続く

 

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