終わった……
声もなく、私は試合場を凝視するしかなかった。
立っているのは、ヨシエさんで、倒れているのは、チェーンソー。
ヨシエさんも、見た目だけでも満身創痍であるけれども、それでも、自分の脚で立っている。勝敗がどちらに傾いたかなど、確認するまでもない。
最後のチェーンソーの攻撃は、凄かった。私では、目で追うことすら出来なかった。気付いたときには、すでに、勝負は決していた。
しかし、何が起こったのか、ヨシエさんの構えからの動きと、そして、やはり目で追う事すら出来なかったヨシエさんの左の正拳突きから、予想することは出来る。
ヨシエさんは、チェーンソーの最後の技を、真っ向から受け流したのだ。
軌道に腕を構え、その腕に当たると同時に、鎖の軌道を変更する。受け、というものの基本と言えば基本の動きなのだが。
そのスピードが、異常だった。目で追えないような攻撃を、真正面から受ける、というのは、異常を通り越して、言葉すら思いつかない。
おそらくは、受けた腕のスピードは、チェーンソーの技のスピードと同じぐらいあったのだろう。そうでなければ、受けることなど不可能だ。
いや、足りなかったからこそ、ヨシエさんの腕からは血が流れている。完全に受け流すには、チェーンソーの攻撃は速すぎたのだ。
その速過ぎる攻撃を、完全に受け流すなど、不可能。だから、ヨシエさんは、身体に当たらないように、ぎりぎりの軌道修正を鎖に行ったのだろう。
右腕には深刻なダメージを受けるかもしれないが、それでも、直撃を受けるよりはよほどまし。
しかし、軌道を変えたぐらい、と言っても、それが出来た選手など、他にはいないだろうが、では、チェーンソーは破れない。何故なら、チェーンソーは、そこから自分独自のコンビネーションを持っている。
腕をそのまま首に回すようにして、頭の後ろから伸びる、連撃。あれは、スピードこそ一撃目とは比べるまでもないが、普通来ない箇所から来る、というアドバンテージがあり、分かっていても、慣れることは出来ない技だ。
しかし、それすら、ヨシエさんには効かなかった、ということになる。それはさすがに不思議だった。右腕で受け流したヨシエさんに、もう一度、普通は来ない箇所から来る一撃を受け流すほどの余裕はなかったはずだ。
……ああ、しかし、考えてみれば、簡単な話だった。
ヨシエさんは、それを受けようなどと考えていなかったのだろう。
チェーンソーを倒した左の正拳突きは、確かに、その必要などないほどのスピードがあった。いくらチェーンソーが急いだところで、ヨシエさんは先に攻撃して、チェーンソーを吹き飛ばしてしまえばいいのだ。
しかし、それでも疑問は残る。私の知る限り、ヨシエさんは、あんな神速の正拳突きを持っていない。今の今まで、スピードはあっても、私が観客としてまったく捉えられないような打撃を放ったことなど、なかったはずだ。
いや、私ならまだいい。横を見れば、浩之先輩も、何が起こったのか、分からないという顔をしている。おそらくは、ここまで私と同じように推理して、そして行き詰まったのだろう。
つまり、浩之先輩にも、ヨシエさんの攻撃は、見えなかったのだ。
唯一、見えたかもしれない来栖川綾香に目をやり、私は、それを後悔した。
その目つきの鋭さは、そう、あのとき、浩之先輩に向けられたものに、近い。あまりにも激しすぎて、私にはその差がどれほどのものかのか分からないが、今からヨシエさんを殺すつもりだ、と言われれば、素直に信じてしまいそうだ。
……事実、殺そうとしているのではないだろうか?
私がそう錯覚するほどに、来栖川綾香の目は、鋭い。それは、人間の出来る目つきでは、ない。
「……やりやがったわね、好恵のやつ」
その声が、どこか嬉しげであったことに、恐怖にしびれていく私は、すぐには気付くことが出来なかった。
皮肉なことに。
来栖川綾香という怪物への恐怖で、私は、何が起こったのか、最後まで理解出来なかった。
良いことなのか、悪いことなのかは置いておいて、チェーンソー……初鹿さんが、負けたことに、衝撃を受ける機会を、逃した。
ランや浩之には理解出来なかったようだが、坂下が行ったことは、言ってしまえばそれしかない、という手だった。
相手の攻撃を受け流し、その勢いを、自分の拳に変換して、打ち出したのだ。
右で受け、その力を腰で回転力に代え、それを余すことなく、左拳に伝える。
受けるどころか、認識することさえ困難な技を、受け流すだけでなく、カウンターのように利用したのだ。
坂下の力も含まれたそれは、受け流した威力のロスを考えても、ほとんどチェーンソーの攻撃と同じほどのスピードを生み出したのだ。
そして、チェーンソーには、その技を出す力はあったが、その技に対処する力までは、なかった。
チェーンソーのオリジナルの頭の後ろを回す連撃は、一撃目の技と比べれば、児戯にも等しいスピードしか持たない。ほぼ一撃目と同じだけのスピードのある正拳突きに、追いつける訳がなかった。
普通なら、それだけの力を、受け流すことが出来たとしても、利用することなど出来ない。強い力というのは、非常に制御の難しいものなのだ。チェーンソーのそれだって、だから一撃目の力を、その後の連撃に乗せるなどということは出来なかったのだ。
だが、坂下はそれをやってのけた。まるで、それが最初から自分が修めた力であったかのように、それを拳に乗せた。
チェーンソーの防具が、身体全体に衝撃を逃すものであったとしても、その一撃は、身体全体の耐久力を遥かに上回っていた。
つまり、それがチェーンソーの技の威力。自分にすら耐えられないダメージを出す技を、チェーンソーはその身に習得し。
まるで、天が身の程をわきまえなかった人間の、バベルの塔を崩すように、拳はチェーンソーを倒した。
だから、この後のことは、誰でも信じられなかった。誰もが、チェーンソーは死に体である、と思ったのに。
チェーンソーはその場で手をつくと、くるり、とその場で後転、膝を屈し、手を地面についた状態だったが、確かに、動いたのだ。
誰もが、もうない、と思ったところからの動きに、誰よりも先に反応したのは、坂下だった。
その、土下座にも似た格好で膝をついたチェーンソーに向かって、走り込む。
何とか動いたのだろうが、すでに、決着は着いている。いかなチェーンソーであろうとも、その格好から、鎖は振るえない。いや、振るえたとして、いくら威力が乗せられるだろうか。
しかし、坂下だってすでに限界は近い。
両腕は、動かない。当たり前だ。右はあの技を受け流し、左は二発も鎖を受けている。これですぐに腕が動くようならば、最初から坂下はこんなに苦戦などしなかった。
チェーンソーの方が、もちろん不利なのは間違いない。しかし、坂下だって余裕はない。
不利?
ある意味、馬鹿らしい話。ここまで来て、不利、などと。
すでに、そんな話はとっくの昔に終わっているのだ。ここにあるのは、意地をかけた、バカ達の、ありえない戦いだけだ。
黒光りする鎖は、それ自体が生命を持っているように、ひれ伏すように倒れていても、動いていた。
右腕は、先ほどの一撃を放った上に、受け流されたのが悪かったのだろう、初鹿の意志に反して、ろくに動こうとしなかったが、まだ、左腕は生き残っていた。
鎖の先を、初鹿は強く踏んで、コンクリートの地面に押しつけていた。そういう可能性もある、と思って、踏みやすいように、ブーツには凹凸がついており、それが鎖を止める。
頭を上げれば、そこには、突っ込んでくる坂下の姿があった。
初鹿の左腕が、最後の力を振り絞って、動く。それを見ても、坂下は突っ込んで来るのを止めない。
近い。そして、すでに自分の技からも、逃れないない距離であることを、認識する余裕もなく。
異能であることを夢見た。それは、人の身には大きすぎるものだったのだろうか?
否、異能は、異能でしかない。その重さに、人が押しつぶされることはない。異能であろうが何であろうが、それを使いこなしている以上は、異能ではないのだ。
人の手から離れたときこそ、それは異能となる。異能の前には、人の不利など、意味をなさない。
ギンッ
原理は簡単。力が散漫してしまうところを、鎖に全て乗せる為に、そこに止めるだけ。
しかし、それだけで、この異能は助走も必要とせずに、人の最速を、越える。
地に伏した状態の、初鹿の左足が、わずかに浮いた瞬間。
伏した竜のように、その鎖は、牙を剥き、地面から駆け昇った。
人の身で、異能を倒そうとした傲りを持った、その神すら恐れない敵に向かって。
続く