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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(366)

 

 坂下の右腕は、腕全体を覆うように包帯が巻かれていた。包帯を巻いていない左腕にも、まるで蛇が獲物を締め上げたような青あざが、痛々しいほどに目を引く。

 激しい事故にあった後だ、と言えば誰でも納得するような姿だった。ただ、その中で、決して被害者にはあり得ない坂下の眼光が、浩之は多少怖ろしくも感じる。

 そりゃまあ、坂下はどっちかと言うと加害者だしなあ。

 そんなことを考えているのは、何も浩之は呑気な気持ちになっているのではなく、現実逃避みたいなものだ。

 というか、この場のあまりにも微妙な雰囲気に負けるように、浩之はとりあえず何かを言ってみる。

「なあ、坂下。腕、大丈夫なのか?」

「ん? まあ、すぐに直るもんでもなけど、大丈夫だよ」

「いや、そういう意味じゃなくてだな、傷跡とか、残ったりしないのか?」

 動いているのは見ているので、後遺症が残ったりするようなことはないだろうが、一応、これでも坂下も女の子だ。腕という目立つ場所に、派手に傷跡など残ると、色々問題なのではないか、と思ったのだ。

 しかし、それを聞いた坂下は、さも面白そうに苦笑する。

「何、今更そんなことを藤田は気にしてたのか?」

「今更って言うが、一応坂下も女だろ? 気にしろよ」

 いや、坂下を女の子として扱うのは、浩之でもどこか抵抗があるのだが、そんなことで気後れして言わずにおれない浩之ではない。こういう部分が、もしかしたら人気の一因かもしれないと思うと、坂下としては微妙だった。

 ただ、それを浩之と違って、表情に出したりはしない。それにまんまとひっかかったランの手前、それを坂下は表情に出すことさえやめておいたのだ。

「藤田が気にするなら言っておくけど、赤目から、おりを見て腕に皮膚の移植手術を受けろと言われたね」

「へ? 移植手術?」

 まさかの選択肢に、浩之は間抜けな声を出す。

「傷跡が気になるんなら、皮膚を移植すれば、消せる話だろ? まあ、私としては受けても受けなくてもいいんだけどねえ」

 浩之としては、そんな手があるとは、と予測できなかった方法だが、坂下は、浩之とは違って、それをあっさりと受け入れたようだった。考えてみれば、今の医療技術なら、それは大して難しいものでもないのだ。

「お金の方も、マスカレイドで出してくれるそうだしな。ま、部活も学校もあるから、すぐには無理だろうけどね。この後、試合もひかえていることだし」

 実のところ、手術を受けるぐらいは平気で出来るお金が坂下の懐には入っているのだが、遠慮をする坂下ではなかった。

 確かに、手術と言っても、準備もあるし、坂下の都合もある。そんなに急ぐ話でもないのだろう。というか、坂下はあまりにも順応が早過ぎる。浩之はときたま、坂下のそういう部分に驚かされる。

 まあ、筋が一本通っているからなんだろうけど、なあ。それにしたって、その力が、こんなところでも通用するのか?

 浩之の疑問は、まったくもって至極当然の話だ。この状況に、坂下は見事なまでに順応していた。浩之の横にいるランなどは、固まって、さっきから一言も言葉を発しないどころか、いつもは口以上にものを言う表情すら、完全に固まっていた。

 そりゃ仕方ないよなあ、俺でも、思わず話そらしちまったしなあ。

 この部屋には、異分子が混じっていた。いや、異分子という意味では、マスカレイドの選手ではなかったり性別が男だったりする浩之が一番異分子なのかもしれないが、それにしたっておかしい組み合わせだった。

 まず、これだけそろっているのに、ここに綾香がいないのがおかしい。葵は、まあ確かにマスカレイドに出ている訳ではないのでいないのは普通なのだが、それで分類分けすると、ここに浩之がいるのはかなりおかしい。

 坂下と、ランと、浩之。ここまでなら、いつものメンツで、何も不思議に思うことはなかったのだろうが。

 椅子、というよりは、歯医者で見る治療台のようなごつい、背もたれが後ろに動く、まあそれでも椅子なのだろう、それに寝そべっているのは、誰でもない、フルフェイスを被った、チェーンソーだった。

 あの、何故に私はここに呼ばれたんでしょうか?

 何故か浩之とランだけが呼ばれ、ランと一緒に入って来たとき、浩之の心にあったのは、その疑問だけだった。お伺いをたてたいところだったが、怖かったので、思わず心の中でも敬語になった。

 試合の終わった、今、先ほど勝敗を決したとは思えないほど、二人の間には何ら危険なものは漂っていなかった。それは感じられたのだが、だからと言って、くつろげる場所ではなかった。

 このまま、少しばかりずれた会話を坂下と続けていようか、とも思ったのだが、さすがにそれでは話が進まない、と浩之は思って、意を決して、聞いてみる。

「……で、何で俺は呼ばれたんだ?」

 このとき、浩之の頭の中に、ランは数に入っていなかった。それは、ランがここにいることを自然と思っている訳ではなかったが、浩之が呼ばれることを考えれば、まだ自然だと思ったのだ。最低、ランは坂下の弟子なのだから。

「突然、お呼びして、申し訳ありません」

 突然、この場にいるのがおかしい人間、チェーンソーが、しゃべり出した。何かボイスチェンジのようなものでも使用しているのか、誰とも分からない声になっているが、少なくとも、普通の口調だった。

 いや、もちろん、チェーンソーはフルフェイスを被っているだけの女性であることは分かっていたつもりなのだが、浩之は絶句した。あまりのことに、そんな常識すら忘れていたというか、それをあまりのこと、と認識するほどに、それは驚きだった。

 その格好とその声で、言葉がどちから言うと丁寧なことには違和感がありまくりだが、それすらあまり気にならないほどに、驚きが優っていた。

「驚いたというなら、私も驚いたよ。ランはともかく、藤田を呼ぶ理由なんて、まったく思いつかなかったからねえ」

 そう言う坂下には、驚いた様子は、かけらほども見つからない。適当に口からでまかせを言っているのでは、と浩之が勘ぐってしまうほどだ。

 急展開に、浩之の頭がけっこう置いて行かれているのですぐには気付けなかったが、つまりは、ランには呼ばれる理由が、少なくとも坂下には思いつくということだ。

 それに気付いたのは、かわいそうなほど動揺しているランに気付いたからだ。頭は働かなくとも、女の子の様子が普通ではなかったら正気を取り戻すあたり、浩之のシゴロ具合も大概のものではある。

「ラン、大丈夫か?」

 さすがに、この場のおかしさに緊張しているというだけでは、説明しきれないほどに動揺して、蒼白になっているランを気遣わないという選択肢は、浩之にはない。

「は、はい、大丈夫、です」

 嘘というか、そもそもラン自身、大丈夫という意味を忘れているのでは、と思うほど、ランの様子はまったく大丈夫ではなかった。この中で一番救急車を必要としているのは、ランなのかもしれないと思うほどだ。

 ただチェーンソーにおびえている、というのも違う。状況が掴めずに、驚いているというのも、また違う。

 少なくとも、何かしらの事情は、分かっている態度だった。もともと嘘をつくのが苦手そうなタイプだが、今の態度を見れば、何か隠していたことがあるのは、明かだった。

 もっとも、何かを隠されていたところで、浩之は別にそれを責める気はなかった。ランだって女の子なのだし、言い辛いこともあるだろう。そういう意味でなくとも、やはり言い難いことも、人ならあるものだ。そもそも、ランがどんな嘘をつけば浩之にとって不利になるというのだろうか?

 ランに悪気があるとは、浩之はまったく思っていないのだ。確かに、その点で言えば、浩之には人を見る目があった。

 悪巧みをしている、という点で言えば、ランにはまったく悪巧みなどという要素はない。

 そして、皮肉なことに、悪巧みをしていた、当の本人が目の前にいることを、浩之は知らない。

 そんなランに声をかけたのは、坂下ではなく、チェーンソーの方だった。

「ランちゃん、ごめんなさいね。約束守れなくて」

 声を変えていても、にじみ出るような気遣いの言葉。聞くまでもなかったが、ランとチェーンソーは知り合いのようだった。

 ……ランちゃん?

 ランを呼ぶのに、ちゃん付けをしている人間を、浩之は一人しか知らない。実は御木本がからかうときに呼んでいたはするのだが、普通に呼ぶ分には、確かに一人かもしれない。

 ランに、浩之の知らない交友関係があったとしても、別に不思議はなかった。しかし、そのある特定人物のことを頭に浮かべた浩之は、何故か、その人物のことが頭から離れないのに、ほんの数秒、違和感を感じた。

 いや、違和感ではない。予想以上に、頭の中でしっくり行ったのだ。それこそが、浩之が余計に疑問に思う理由だった。

「それから、浩之さん」

「は、はい?」

 いきなりチェーンソーに名前を呼ばれて、浩之は裏返った声を出してしまった。チェーンソーの恐ろしさは、一度手を合わせた程度でも、必要以上に理解出来ていた。

 しかし、それだからこそか、それと、チェーンソーの印象が重ならず、その代わり、他の人物と、今のチェーンソーの印象が、重なってしまったのだ。

 そして、そんな浩之の混乱は、すぐに解消されることとなった。ある程度、つまりは、浩之がかなり混乱する程度の驚きと共に。

 チェーンソーは、そのフルフェイスのヘルメットに手をかけると、何の躊躇もなく、頭から、外した。

 穏やかな、そう、柔らかい、と表現するのが一番しっくり行く微笑みをたたえた彼女は、まるで、悪戯のばれたおてんばな少女のような顔で、浩之に小さく頭を下げた。

「ランちゃんが黙っていたのは、私に言われたからですから。責めないであげてくださいね」

 しかし、どこか浩之を弄んでいるような、そんな、悪意はなくとも、底を見せない彼女に、浩之は、正直思考が停止したのだった。

 

続く

 

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