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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(367)

 

 まさか、という思いよりは、もしかして、という思いが浩之の頭にあったのに、浩之本人も驚きがあった。

 そもそも、浩之の思考の中には、そんな選択肢はなかったのだ。登場人物だけで物事を判断する、というのは、陸の孤島で起こる密室殺人ならともかく、この広い街の中で、自分の知り合いだけで物事を考える方がどうかしている。

 出会いに関してだって、浩之の方から、声をかけているのだ。そこには、彼女の思考は入っていないはずだ。いくら何でも、そこまで人を制御出来るとは思えない。いくら、底を見せない性格とは言え、あくまで、底を見せないだけで、何も超能力がかった力を持ってないないのだから。

 しかし、知ってしまえば、ありえる、と浩之も思ってしまったのだ。

 それも当然だ。選択肢に出てしまえば、ランが最初の方で疑ったように、彼女の登場はどこか作為じみている。登場人物の中で一番怪しいのは彼女で、ミスディレクションにするにしては、唐突過ぎる。

「騙すつもりはなかったんですよ? 最初に浩之さんに声をかけていただいたのも、本当に偶然のことでしたから」

「……初鹿さん?」

 しかし、そうは言っても、結びつかない。理屈では分かるし、直感もそうだろうと言っているのだし、何より、今目の前でフルフェイスのヘルメットを外して出て来たのは、間違いなく、初鹿だった。

 寺女の、綾香の一つ上にあたる先輩。柔らかな笑みが特徴で、お嬢様っぽいのだが、浩之を簡単に手玉に取るのは、それは普通の女子高生ではないのだろう、と浩之も薄々は感じていたことなのだが。

 まさか、そういう意味で普通ではないとは。

「ただ、悪戯心を出して、ちょっと手を出してしまってから、言い辛くなってしまって」

「……そういやそういうこともあったなあ」

 自分が、チェーンソーに狙われたことだけは、浩之の頭の中で引っかかっていたのだ。チェーンソーほどにもなれば、浩之の実力は、調べれば分かりそうなものだ。少なくとも、戦うに値するほどの評価を、浩之は自分に与えていない。その一線には、今の浩之ではほど遠いのを良く知っていた。

 あのときは、手加減していたのだろう。でなければ、浩之はともかく、ランの方はやられていたはずだ。そういう意味では、初鹿に、正体を隠してランを倒す理由がなかったことを、幸運と言わなければならないだろう。

 しかし、ランと言えば。

 浩之が襲われたときは、まだ気付いていなかった可能性が高いが、ランは、初鹿と浩之よりも仲が良さそうだったので、自分で気付いたのか、初鹿が教えたのか知らないが、このことを知っていたのだろう。

 というより、今のランの態度を見て、ランが事情を知らなかった、とは誰も思うまいが。

 黙っていたことが、そんなに心苦しかったのか、ランの顔は、見ている者が申し訳なくなるほどに、蒼白になっている。ランの生真面目な性格を考えれば、それも仕方のないことか、と浩之は思った。

 浩之の考えは、この場合大きく外れているのだが、外れているだけに、浩之は躊躇なく、ランに声をかける。

「そんなに気にするなよ、ラン。そりゃ少しは驚いたが、これぐらいのことは、けっこうよくある話だからな」

「……よくある話、ですか?」

 ランの声は、どこか無理矢理絞り出しているようなものがあったが、浩之は、努めて気を抜いた声を出す。その方が、大したことではないと、ランが思ってくれると考えたからだ。

「そ、大したことじゃないって。綾香や坂下の相手してりゃ、もっと理不尽なことはよくあるからなあ」

「綾香はともかく、私の名前をそこで出さないで欲しいんだけどねえ」

 坂下は、苦笑しながらも、あまり深くは突っ込まなかった。坂下自身は、ランを助けてやろうとは思わないが、浩之がすることにまで文句をつける気はなかったのだ。

 坂下には、ランがただ黙っていたことがばれたことを苦しんでいるようには、見えなかったからだ。もちろん、それもあるのだろうが、いくら生真面目な性格をしていても、それだけでここまで酷く顔を青ざめることはないだろう。

「そうですよ、気にしないでいいんです。私がお願いしたことを、ただランちゃんは守ってくれただけなんですから」

「あ……」

 初鹿にそう言われて、ランは何も言えなかった。初鹿が、自分に口止めしたことなど、そんな態度さえ一度も出していないことを、ちゃんとランは覚えていた。

 しかし、今のランに、何が言えるだろうか?

 状況に流されているとしても、今まさに、奔流に飲み込まれた無力な溺れる者であるランには、会話を続ける余裕すらないのだ。

 うかない、と言うより蒼白な顔は、まったく変化しなかったが、浩之がそれ以上フォローを入れるよりも先に、初鹿に動きがあった。まるで、浩之のフォローを遮ったようであった。

「それでは、改めまして、と言っても、試合ですでに顔合わせは済んでいるので、変な気もしますけれど」

 ふふふ、と初鹿は、いつもの柔らかい笑いをしてから、もたれかかっていた身体を上げ、坂下に頭を下げた。

「初めまして、初鹿と申します。浩之さんにも、ランちゃんにも、色々とお世話になっています」

「……確かに、何か変な気分だね」

 にっと坂下は笑うと、姿勢を正して、同じく頭を下げる。

「坂下好恵だよ。ランから色々話は聞いていたけど、こんなところで会うってのは、何か因縁を感じるね」

 お互いに、すでに死闘と呼べる試合を終わらせた後だ。多くの言葉を交わすよりも、ある意味お互いのことが良く分かっている。これで挨拶をするというのは、確かに変な気はするだろう。

 とは言え、初鹿としての挨拶はこれが初めて。初鹿の礼儀正しさは、少なくともチェーンソーのとき以外は有効であり、当たり前と言えば当たり前の行動なのかもしれない。

 しかし、初鹿は、ふふふ、とまた上品に、しかし楽しそうに笑う。いつもながら、柔らかい、と表現するのがぴったりな笑いなのだが、浩之は、初鹿のもう一つの面、その底の見えないものを、その笑いから感じ取った。

 坂下も、いぶかしげに顔をしかめる。さっきまでは、どこかほのぼのとしていたこのやりとりに、僅かながら、坂下の緊張感が混じる。それは、得体の知れないものへの警戒だった。

 底が見えないのに、悪意なく、しかしどこか意地悪い笑いを、少しだけ、初鹿はその笑いを続けた。

「ふふふふふっ、そうですね、それなりの因縁ですよ」

 実に楽しそうで、浩之は何か嫌な予感を覚えていた。だいたい人が楽しそうにしている場合は、ろくなことが起きない、というのが、浩之が最近覚えた教訓だ。日頃の苦労が忍ばれる教訓である。

「それでは、本当に改めて」

 初鹿は、しごく純粋に楽しそうに、再度頭を下げた。

「坂下さんには、不肖の弟がよくお世話になっています」

「は?」

 まるで、皆があたふたするのを見て楽しむかのように、もったいぶって、初鹿は柔らかい笑顔のまま、言葉を続ける。

 それは、さすがの坂下と言えども、それは意表を突かれる言葉だった。

「私の名前は、寺町、寺町初鹿と申します」

「「「はぁ?」」」

 先ほどまで顔を蒼白にしていたランすら、その名前を聞いたとき、思わず声を上げてしまった。

 初鹿の家に行ったこともあるのだから、標識ぐらい確認しても良さそうなものだが、それすら怠るほど、あのときのランはせっぱ詰まっていた、とも言う。

「寺町って……えええっ?!」

 今度こそ、浩之の予想をはるかに越える驚きだった。

 言わずもがな、超のつく格闘バカ、と同時に、浩之を予選で打破した、恐るべき打ち下ろしの正拳を使う空手家。

「いや、確かに、たまに合同練習はするから、世話しているような気はするけど……」

 考えてみれば、寺町、格闘バカの方の寺町の方だが、も人の子であり、家族兄弟がいてもまったく疑問とするところではないのだが、しかし、これほどそれがつながらない人間も珍しい。

 何より、初鹿と寺町が、まったくつながらない。格闘バカなバカと、柔らかいが底を見せない美少女。これを一緒に考えろ、という方がどうかしている。

 しかし、事実は事実。少なくとも、嘘や冗談ではなさそうだった。

「浩之さんのことも、弟からは何度か聞かされていましたから。すぐに本人だと分かりましたよ」

「は、はあ……」

 浩之も、次の言葉が出て来ない。それほどの衝撃を受けていた。ショックだと言ってもいい。

「ランちゃんは……家に来たときに表札を見て気付いたと思っていたのですが」

「あ、いえ、あのときは、見てなかったので」

 ランの気を紛らわせるために、わざわざ言ったと言われても、素直に信じてしまいそうだ。それほどに、衝撃が大きかった。

 三人が三人とも、初鹿に翻弄されているのを自覚して、坂下は苦笑した。

 試合には勝ったし、勝負にも勝ったが、その後は、初鹿の完全な独断場であった、と。

 その場を完璧に支配した初鹿は、ダメージ的には悠長に笑っているような状況ではないだろうに、楽しそうに、柔らかく笑うのを、しばらく止めなかった。

 ある意味、坂下がチェーンソーに、技ありを取られた瞬間だった。

 

続く

 

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