「後腕立て百回!!」
部員達から「えー」という不平不満の声が上がる。
「無理ですよ、部長」「そうですそうです、だからこっち来たらやる気出さないで下さい」「というか、部長だけでして下さい」
「え〜い、部長と呼ぶな部長と! 主将と呼べと何度言ったら分かる!!」
相変わらずのバカは、やはりバカを見る目で見られていた。まあ、無駄に元気があって良い……とは言えないが。
しかし、そのまま放っておくと、そのバカに押し切られて、本当に腕立て百回とかやらされそうな勢いはある。なので、坂下はとりあえずフォローを入れておくことにした。
「寺町、筋トレは無駄に回数こなしても意味ないよ」
「し、しかし……」
「筋力の限界を出すことに意味があるんだからね。回数やらせるよりも、少ない回数で、個人の限界を出させるのが重要なんだよ。寺町も先輩なら、そこらも勉強したら?」
嘘ではない。というか、根性主義で身体を鍛えることなど、流行らないとかの話ではなく、意味がないというのが今の風潮だ。効率が悪いというのもある。
部活中の筋トレは、実際効率が悪い。傷付いた筋肉が超回復を起こすことによって筋力がアップするのだから、回復をする時間が必要な訳で、部活中に回復する時間はない。やはり寝る前が一番効率が良いだろう。
「しかし、自分は腕立ての百回ぐらい……」
「個人差があるんだ。それに、それじゃあんたの練習にならないだろ」
「それは確かに……」
そう、やり方云々を良しとしても、全員に腕立て百回をさせるのは間違っている。個人の限界を出さないといけないのに、筋力には個人差があるのだ。百回は、確かに多い回数かもしれないが、寺町には限界ではない回数だろう。反対に、寺町の部員の中の女の子には、おそらくは不可能な回数だ。
「それぞれ、合った負荷で限界数を三セット、これでいいだろう?」
「まあ、坂下さんがそう言うのなら……」
しぶしぶ、という感じで寺町は同意する。
寺町のように、根性主義で練習していたのでは、身体がいくつあっても足りないだろう。無理は、怪我と隣り合わせだ。寺町は人一倍頑丈な身体を持っているからいいのだろうが、他もそうとは限らない。
とは言え、だからと言って坂下のやり方が楽か、と言われると話は違って来る。効率良く、というのは良いのだが、つまりそれは息をつく暇がないということだ。
だらだらやるのではなく、集中して、短いインターバルで休憩を挟む。
しかし、休憩があっても、決して楽ではない。集中するのは長い時間ではないと言っても、それを何度も繰り返せば、肉体的にも、精神的にも疲労は免れない。
無駄な疲労はないが、必要な疲労はあるのだ。効率が良いだけで、楽を出来ると思ったら大間違いで、下手をすれば、根性主義で鍛えるよりも厳しいかもしれない。
まあ、根性主義は根性主義で、効果がない訳ではない。
「四十五、四十六、四十七!!」
寺町としては、どう見ても少ない回数で、すでに限界に近くなっている。しかし、それもそのはず。寺町は、逆立ちして、足を壁につけて腕立てをしているのだ。
逆立ち腕立てなど、普通ならほとんど持つものではない。しかし、寺町はそれをこなす。逆立ちでなければ、椅子に足を乗せて、さらに身体の上に人を乗せて腕立てをする。
限界を超えた、さらに限界を毎日鍛えた結果出来るのは、普通身体を痛めることだが、それを乗り切れる人間であれば、非常識な力を手に入れることが出来る。寺町は、その典型的なタイプだった。
坂下も、同じようなものだ。ただ、坂下は効率良く効率良く、限界を超えてさらに練習をするので、寺町よりも酷いかもしれない。しかし、坂下はその練習に耐えきった。
人と同じ練習では、人と同じだけしか成長しない。そのことを、坂下は痛いほど分かっていた。だから、無茶とも呼べる練習を繰り返して、ここまで来たのだ。
「ぬおおおおおおっ!!」
すでに限界数を超えているだろうに、叫びながら、寺町はまだ腕立てを続ける。
まあ、寺町の場合は、ただ単にバカで苦しさとかを理解できないだけなのでは、と坂下は思っていたが、口には出さなかった。言わずとも、皆理解していそうだったからだ。
坂下は、今は腕立てをしない。部活には出ているが、今は厳しい練習が出来るほどには回復していないのだ。両の腕には、痛々しく包帯が巻かれたままだった。
人徳というか、日常なのか、それについて深く聞いてくる部員はいなかった。寺町などは、どこで楽しそうなことをやってきたのかと、悔しそうな顔をしたほどだ。
今日休んでいるのは、健介だけだ。田辺は、健介の見舞いに行きたくて仕方ないという様子ではあるが、少なくともさぼってはいない。まあ、早く帰らせてやろう、と坂下は考えていた。
御木本は、だるそうに練習をしている。しかし、最近はよく部活に出て来るようになった。というか、さぼりと称してマスカレイドの方に行くことが減った、と言った方がいいのか。
ランは、見た目真面目に練習をしている。しかし、心ここにあらずとも見えるし、引き絞られた弓のようにも見えるし、少なくとも、平常心で練習を続けているようには、まったく見えない。最低、練習にはあまり身が入っているようには見えなかった。
悲喜交々。それを、坂下は清濁合わせて飲み込む。それが、ある意味坂下の強さとも言えた。
「ああ、そうだ、寺町」
限界をさらに超えて腕が動かなくなった結果、倒れてやっと腕立てを止めた寺町に、坂下は思い出したように言った。
「何で、すか?」
息も切れ切れだ。筋トレで息があがるほどとは、どれほど無茶をしているのだか。普通は息が切れる前に筋力の限界に来るだろうし、それだけの負荷をかけるべきなのだが。
「あんたのお姉さんに会ったわよ」
先ほどまでは、息も絶え絶え、だった寺町の身体が、ぴたり、と動きを止めた。微動だにしないその姿は、息どころか、心臓すら止まっているのでは、と思うほどだ。
しばらく動きの止まっていた寺町だが、まるで危険が過ぎたと判断した亀が甲羅から頭を出すように、珍しすぎるほどおずおずと、坂下に聞く。
「あの、寺町さん、姉に会ったというのは……」
「初鹿さんって、あんたのお姉さんでしょ?」
まさか別人、ということはないだろう。というか、身に覚えが有りすぎる、という態度を寺町が取っているのだから、姉であるのは間違いない。
ただ、寺町の様子が、かなりおかしい。怯えるようにすら見える寺町というのは、珍しいと通り越して、珍妙以外の何物でもなかった。
「あ、あの悪魔……いやいや、姉に会ったんですか?」
今、悪魔って言った。
突っ込むべきか突っ込まざるべきか、坂下ですらすぐには判断出来なかった。
「いや、まあ、会ったは会ったし、話もしたんだけど……」
「な、何かされませんでしたか? 笑顔で人を罠に貶めたり容赦なく止めの一歩前で止めてなじってみたり外面の良い顔で人の所行じゃないことをしたり……ああ、そう言えばその包帯、もしかしてっ」
明らかに寺町が怯えていた。どうしようもないバカだが、バカだからこそ怖い物知らずの寺町をここまで怯えさせるとは、どれほどトラウマを植え付けて来たのだろうか?
まあ、兄弟仲、この場合姉弟仲だが、は単純な腕力では測れないものがあるとは言え、いや、単純な力の差でも起こりそうな姉弟ではあるが。何せ、弟はバカだが、姉は異能だ。
しかし、こんな場所で、しかも寺町に、マスカレイドの話をするというのはどうかと思ったので、坂下は言葉を濁す。
「違うとは言わないけど、見た目優しそうな人だったねえ」
それは、試合をしていれば厳しいのは当然だが、試合が終わって話してみれば、底は見えないものの、別に悪い人間だとは思わなかったのだが。
「見た目に騙されちゃいけません。あ、あれは血も涙もない極悪人です。係わっただけで呪われます。下手に目をつけられるとあれに取り殺されますよ!」
「いや、そこまで言う気持ちは流石に分からないけど。それに、ランはあんたのお姉さんとかなり親しそうだったよ。初鹿さんも、ランには優しそうだったし」
初鹿がランのことを気遣っているのは、見ていても分かった。その点から見ても、それほど酷い人間には見えないのだが。
「ランって、あの新人の子ですか?」
指さした先には、どうもやはり気合いの乗っていない練習を続けているランがいた。
「そうだけど」
「ま、まさか、うちの姉と交遊を深めようなどと言う猛者がいるとは……」
寺町の、ランに注ぐ視線が、どこか尊敬めいたものに変化する。そいつもどうなのだろう、と坂下は思ったが、まあ、ランが多少視線をうざったく思うぐらいで事が済みそうなので、このままにしておくことにした。
坂下はとりあえず、倒れている寺町は放っておいて、事情を知ってそうな中谷に、聞いて見ることにした。
「あ、初鹿さんですか? ええ、知っていますよ」
「何か、寺町物凄く怯えてるみたいなんだけど」
ははは、と中谷は渇いた笑いをする。
「何か、子供の頃に物凄い悪戯されまくったそうで。僕が会ったころは、初鹿さんはただ綺麗で優しいお姉さん、という感じでしたし、実際そうでしたよ。まあ、小さなころのトラウマは、簡単には消えないんじゃないですか?」
それだけではなさそうな気もするが、坂下はこれ以上この話に首を突っ込むのは止めようと決意した。苦しむ寺町を見る趣味も、助ける趣味も坂下にはない。
「ああ、それで、あの悪魔、じゃない姉の話はいいんですが」
恐怖と疲労が去ったのか、回復した寺町が、坂下に話しかける。
「実は、これからしばらく、俺はここに来れなくなりそうです。あ、部員は来させますから、みっちりしごいてやって下さい」
「何、山ごもりでもするの?」
けっこう冗談ではなく、坂下はそう言う。このバカなら、本当に眉毛を剃って山ごもりぐらいしそうだ。
「まあ、似たようなものですよ。いや……」
ニヤリ、と寺町は、復活したのか、その顔に、いつも通りのバカと笑みを浮かべる。
「おそらくは、もっときついですかね」
そういう寺町の顔は、あまりにも楽しそうで、正直、こいつマゾなんじゃないのか、と坂下は考えた。
しかし、どこに行くのかを聞いて、坂下は、寺町が怯えたのを見たときよりも、初鹿が寺町の姉だと知ったときよりも、さらに驚くこととなった。
続く