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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(375)

 

「……センパイ、調子悪いんですか?」

 どこかぼうっとしている浩之を見かねて、葵は恐る恐る尋ねてみた。

 日曜が終わって週最初の練習日、今日は綾香も、坂下も来ていない。二人きりの、神社の裏での練習で、葵はけっこう楽しみにしていたのだ。もちろん、練習中は雑念など浮かびもしないが、浩之の様子がおかしいと思えば、話は違ってくる。

「あ、いや、ちょっと考えることがあってな。大丈夫、体調不良とかじゃないから」

 何を、とは言わなかった。だいたい、そんな浩之を見て、放っておける葵ではないのだが。

「そうですか……それならいいんですが」

 葵本人も、自分のことをいくじなしと思ったが、浩之に話す気がなさそうなのを見て、引き下がるしかなかった。

 浩之が練習をおざなりにしている、という訳ではない。最近の浩之は、むしろ鬼気迫って練習をしているようにすら見える。葵が坂下と試合をすると決まったときに、不安から無茶な練習をした、あのときよりも、今の浩之の練習は厳しいかもしれない。

 しかし、心ここにあらずであるのは確かだった。というよりも、あのときの葵に似ている。練習をして、不安を紛らわせようとしていた葵と、今の浩之は良く似ている。

 日頃の、はっきりと目的意識があって、辛い練習を繰り返す浩之と比べると、その差は歴然だった。そういう精神的に深い場所で安定出来る浩之の強さを、今日の浩之はまったく発揮できていないようだった。

「あ……あの……」

 練習の手を止めて、葵は、思い切って浩之に話しかける。

「ん? 何、葵ちゃん?」

 息を切らしながらも、浩之はサンドバックを打つ手を止めて、笑顔で答える。それが、どこか無理をしているようで、葵は何故か悲しい気持ちになった。

 葵のうぬぼれでなければ、一応、二人の間には、十分な信頼関係が築かれているはずだった。だからこそ、葵としては、悩みがあるのに言ってもらえないのは寂しいし、こういうときこそ、頼って欲しいのだが。

「あの……何か、悩んでいることがあるのなら、相談に、乗りますよ?」

 と、自分で言ってから、葵は次の瞬間には後悔していた。

「あの、いえ、私なんかじゃ力にはなれないかも知れませんが、それでも、話せば少しは楽になるかと……」

 えらそうなことを言っているが、実際のところ、葵がどれほど浩之の役に立てるのか、怪しいものだった。精神的なことを言えば、葵は、自分がどれほど未熟であるのか、自覚があるつもりだったのに。

 それなのに、相談に乗るなど、まるで上から見ているような態度を取って、浩之が気を悪くしたのではないか、とすら思った。

 ただ、浩之の優しさは、葵も良く知るところであり、生意気な後輩ぐらいでは、少しも揺るがないのは間違いなく、事実、相談に乗るはずだった葵に、優しい笑顔を向ける。

「葵ちゃんは優しいなあ」

 そう言って、葵の頭をなでた。

「そ、そんな、センパイにしてもらったことを考えれば、これぐらいじゃあ恩は返せませんし」

 これでは、どっちが気を遣ってもらっているのか、分かったものではなかった。

 しかし、こうやって頭をなでてもらうことが、くすぐったいが気持ちいいのも事実で、葵は、少しの時間、されるがままに頭をなでられていた。

 だが、それで葵はいいだろうが、浩之の考え事が解決した訳でないことは確かだった。

 葵は、一度は後悔したものの、それでも、覚悟を決めて、もう一度聞いてみる。

「それで、考え事って何ですか? 何か、今日のセンパイ、少しおかしいです」

 少しでも浩之の役に立ちたいのもそうだし、浩之に頼りにされたい、という思いもある。悩みがあるならば、それを聞かせてくれるだけの信頼関係を、葵は欲していた。

 割合で言うならば、浩之のことが心配なのが九割、葵の都合が一割、というところだろう。一割でも、葵は少なからず罪悪感を感じているが、普通ならば、ほぼ十割、こちらの都合であることを考えれば、どれほど葵がいい子か分かりそうなものだ。

「ん? ああ、いや、大丈夫だって。もう終わった話だしさ。ちょっと相手もいることなんで、詳細は話せないけどな」

「そうですか……すみません、でしゃばってしまって」

「いや、葵ちゃんの気遣いは嬉しかったから。それだけで十分だって。ありがとな」

 しゅんとなる葵を見て、浩之はすぐにフォローに入る。確かに、これではどっちが気を遣っているのか分かったものではない。だから、余計に葵はしゅんとなった。

 相談してもらえない嫉妬、とでも言った方がいいのだろうか、一割もそんな気持ちがあれば、葵が自己嫌悪におちいるには十分な理由だった。

 予想以上にへこむ葵を見れば、浩之だって、終わったことだし、事情を話すぐらいはいいか、とも思うのだが、言ったように、他人が関わっている以上、あまりおおっぴらには言えない。

 何せ、自分が告白されて、それを断ったなど、浩之の判断基準では、他人に言うべきことではなかった。

 嫌いでは、なかった。かわいい後輩であったし、好きと言われて、ぐらつかなかった、と言えば嘘になる。

 誰を愛している、などという人物も、浩之には今のところいない。

 一番恋人に近いだろう綾香とも、正式に付き合っている訳ではないし、浩之自身、綾香のことを本当はどう思っているのか、良く分からないのだ。下手をすれば、一番愛しいかわりに、一番嫌っているのかも知れない。

 そういう意味では、断る理由はなかったのかもしれない。ランに対する浩之の気持ちは、綾香に対するものと比べると、実に分かり易い好意だ。

 しかし、ランのことを、恋愛対象として見ていなかった、というのは事実で、もうその時点で、浩之がイエスと答えることはないのだ。

 試しに付き合ってみよう、などと考えるには、浩之はランのことを大切に考え過ぎている。そんな中途半端なこと、かわいい後輩に対して、出来ようはずがなかった。

 だから、断るしかなかった。それで悲しませると分かっていても、うかつな答えは返せなかったのだ。

 ランは、告白後は、最後まで気丈に振る舞っていたが、しかし、傷付いていない訳がない。それを慰めることは、浩之には出来ないが、気にするな、と言う方が無理だった。

 元気になって欲しい、と願うのも、筋違いとすら思う。悲しませたのは浩之で、だからこそ、浩之には何も言う権利はないのだ。

 しかし、なるべく顔には出さないようにしてたんだけどな。

 顔には出ていなくとも、練習をすれば、それこそ多くが葵には分かってしまう。それほどの付き合いが、もうこの短い間に出来てしまったということだろう。

 しかし、葵の気持ちは嬉しいが、これは浩之の問題であり、浩之が一人で消化せねばならないものだという気持ちは、揺るがない。葵の気遣いすら、今の自分にはもったいない、とすら浩之は思っていた。

 その気遣いで、少し浩之の気持ちは軽くなったのだから、葵のやったことは、無駄ではなかった。

「ほら、葵ちゃん。休んでいる暇はないぜ。エクストリームまで、時間もないんだ。集中してやろうぜ。綾香や坂下が来ると、けっこうどたばたして、集中どころじゃなくなるしな」

 くすり、と葵は笑うと、大きく伸びをして、気持ちを切り替える。浩之に気を遣われてしまうのは、葵としても本意ではないのだ。だったら、空元気でも、元気にした方が、浩之に気を遣わせないでいい、と思ったのだ。

「……そうですね、がんばりましょう!」

 それに、浩之の言うことも確かだった。エクストリームまで、もうあまり時間はない。2ヶ月ちょっとなど、強くなるには、あまりにも短い時間だ。それに集中しなければ、いや、集中出来たとしても、そんな短い時間で、成果を上げるのは至難の業。悩んでいる時間すら、惜しいのだ。

 そうして、実際のところ、もうあまり時間が残されていない、二人だけの練習は再開されるのだった。

 

続く

 

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