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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(384)

 

 考えてみれば、一年ぶり以上かもしれない。坂下が、ここに来るのは。

 最新式の器具が置かれた、高めのスポーツジム、と言われれば、素直に信じられる場所だった。しかし、ここを所有しているのは、個人であり、使うのも、ほとんどその一人だけだった。

 もう、だいぶ来ていなかった、というのもあるが、綾香のトレーニングルームは、かなり様変わりしていた。本格的になった、と言った方がいいか。

「何か、前に来たときよりも、器具が充実しているように見えるんだけど……」

「そりゃお金かけてるもの。ま、設備がそのまま効果につながる訳じゃないけどね。ないよりはいいんじゃない?」

 あるに越したことはない、と言うが、運動器具というものは、だいたいありえないぐらい高く、量が売れないのだから当たり前なのだが、一般的な高校生が手を出せるものではない。

 それを、この広いトレーニングルームが寂しくない程度には器具がそろえてあるなど、個人レベルで言えば、ありえないと言えるだろう。

「このブルジョアめ」

 最近ではセブレと言うのかもしれないが、綾香はそんな感じではない。成り上がりではなく、もともと資産家であり、綾香本人はエクストリームで優勝して、少なからず、訂正、非常に大金を手にしているのだ。

「そういう好恵も、マスカレイドから、けっこうなお金もらったんじゃないの?」

「ああ、あんまり興味ないし、通帳から下ろすことなんて、ほとんどないしね」

 もともと、空手以上にお金のかかる趣味を持っていないし、物欲に走るようなタイプでもない。それに、綾香の持っている金額に比べれば、坂下がマスカレイドに出ることで得た金額は大したことはない。

 それでも、坂下はかまわなかった。もともと、というよりも、今でもお金の為に出た訳ではないのだ。もらわなくとも、まったく問題ないお金なのだから、自分のものだという感覚も薄い。

 おそらく、坂下がこれからずっと空手をしていても、ここまでお金になることはないだろう。運動は、ごく一握りの種類と選手以外は、お金にならないのだ。

 だったら、マスカレイドで稼げばいい、とは当然坂下は思っていない。

 マスカレイドでやらねばならないことは、もうほとんど済んでいるのだ。一位に勝ったということは、今、マスカレイドの一位は坂下なのだが、事が済めば、一位などさっさと返上して、また普通の生活に帰るつもりだった。

「にしても、好恵がここに入るのは、かなり久しぶりのことよね」

「そりゃそうさ。綾香は一人で練習するのも苦にしないみたいだが、ここはどうも閉鎖的で、私は好きになれないからね」

 組み手の相手がいない、というのもある。まあ、それはあのセバスチャンという大柄の執事がしているようで、坂下はその腕を直に見たことはないが、かなりの猛者であることは知っている。

 それでも、ここは閉鎖的だった。正直、息が詰まる。こんな場所で練習して、精神的に健全に鍛えられるとは、到底思えなかった。

 気持ちよく練習する、というのは、案外に重要なことだ。嫌なことよりは楽しいことの方が長続きするものだし、精神的なもので、同じ練習でも効果は飛躍的に違って来る。

 そういう意味で、ここは、あまり環境が良くない。まるで、わざとそうしているようにしか思えないぐらいに。

 設備も良いし、照明も明るいはずなのに、どこか硬い。いるだけで、精神的重圧を感じるのだ。

「まあ、そう意識して作ってあるから」

 綾香は、そう言って、さらりとそれを認め、坂下は、別に驚くことなく、それを受け入れる。

 綾香は、試合のプレッシャーにも異なっているようで似たような雰囲気を持つ、この薄くも長い重圧に、ずっと耐えることで、精神的な意味でも修練を積んでいるのだ。

 普通の人間なら、それよりも肉体的な練習を重要と思うだろう。

 だが、綾香は、その両方を、同時に重要と思い、同じだけ、同時に鍛える。無茶とかをまったく考慮しない。普通の高校生ならば、簡単につぶれてしまうであろうことも、綾香にしてみれば、単なる効率的な練習の一つでしかないのだ。

「珍しいと言えば、坂下が私とさしで話すってのも珍しいわよね。たいがい、ろくな話じゃないけどね」

「まったくだね」

 それには、苦笑しながらも、坂下は同意するしかなかった。今回だって、決してまともな話ではないのだ。お互いに気の置けない仲ではあるが、二人だけになると、大概はあらぬ方向に進んでしまう。ある意味、最強の組み合わせなのだろう。

「試合が始まったら、ゆっくり話せないと思ってね」

「そうね、試合が終わった後、話せる状態かどうかも分からないし」

 冗談ですら、ない。その言葉は全て本気。そういうことが、この二人ならばありうる、と綾香も坂下も思っていたのだろう、綾香は平然と言い、坂下はそれに何の反論もしない。

「で、綾香。腕の状態はどうだい?」

「そっくりそのまま返してあげるわ。盛大に出血してたし、治るのには時間かかるんじゃないの?」

 綾香は、マスカレッドに執拗に狙われ、しばらくは動かせないほどにダメージ与えられた。

 坂下は、チェーンソーの鎖と、異能の必殺技を受けきる為に、両腕に深刻なダメージを受けた。あの、異能の鎖に到っては、腕の皮が裂けてかなりの出血をしていた。少なくとも、自然回復では傷跡が消えないほどの傷を受けた。

 これだけ聞けば、坂下の受けたダメージの方が大きそうに思うが、より執拗にやられた綾香の腕のダメージだって、決して楽観出来るものではない。下手をすれば、後遺症すら残ったかもしれないのだ。

 まあ、その結果、マスカレッドは後遺症の残りそうなほどに、綾香にやられた訳だが。

「そう、ほんと、久しぶりよね……」

「ああ、本当に久しぶり……綾香と、本気で戦うのは」

 あら、と綾香は意地悪く笑った。

「私が本気を出して好恵と戦ったことなんてないわよ。実際、私の全勝でしょ?」

 言ってろ、と坂下は、その致命的とも言える事実を、あっさりと受け流した。

 それも、過去の話だ。二人とも、過去の話をしたい訳ではない。未来の、次の話をしたいのだ。

 まあ、話をしたい、と言っても、実際、坂下から言いたいことは、そう多くない。

「やっと」

「ん?」

「やっと、たどり着いた」

 綾香と、戦える場所まで、坂下は、たどり着いた。ただ戦おう、とするだけなら、個人的にも不可能ではなかったのだろう。

 しかし、綾香を本気にさせるには、それなりの「舞台」が必要だった。今回の舞台は、間違いなく、最高の舞台だった。

 綾香には、分からないだろう。いや、分かってはいるのかもしれない。

 どれほど、坂下が、綾香と本気で戦いたかったか、など。

 しかし、分かっていたとしても、綾香が、もう一度完全に決着をつけた坂下と、もう一度戦いたい、と思うことは、だからこそ難しい。

 そこまで、持っていけたのだ。猛者を倒して、綾香を、その気にさせた。

「私も、ちょっとだけ言いたいことがあったりするんだけどね」

「何だい?」

「私と戦うの、やめておいたら?」

 綾香は、実に軽く、坂下の悲願を、止める。

 衝撃とも言える内容のはずなのに、坂下はまったく慌てた様子はなかった。いや、この二人の間には、もう驚くようなことなど、ないのだろう。お互い、言うことが無茶なのは、よく分かっているのだろうから。

「綾香らしくないね。強いやつとは戦いたい、どっかのバカじゃないけど、綾香も、私も、それは避けられない気持ちだと思ってたんだけどねえ」

「もちろん、好恵とは戦いたいわよ。観客もいるってなら、なおさら燃えるわね」

 ある意味、それは、坂下が一番言って欲しかった言葉だった。

 にやけそうになる顔を、坂下は、一生懸命取り繕う。

 ないがしろにされることを、誰よりも嫌う坂下。その原因を作った本人に、はっきりと、戦いたい、と言ってもらったのだ。これほど、嬉しいことはなかった。

 しかし、だからこそ、不可解な話でもあった。

 綾香は、天才で、感情も平気で制御出来る。だが、それでも、戦いたいという欲求を抑えきれない、いや、抑える必要を感じないものだと、坂下は思っていたのだが。

「じゃあ、何で?」

 憤りはまったく感じなかったが、疑問は残ったので、坂下は、尋ねる。

 綾香は、どこか苦笑しながら、理由を、それを理由と言っていいのか微妙だが、確かに戦わない方がいいかもしれない、と思う言葉を、言う。

「今度戦ったら、本気で取り返しの付かないところまで、やっちゃうような気がするのよね」

 

続く

 

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