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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(393)

 

 先制、という意味では、一歩坂下に譲った形になったかもしれない。しかし、綾香は、まだまだ余裕だった。先ほどの攻防の意味が分からない、ということはないだろう。つまりは、今一歩劣ったとしても、それはまだ前哨戦でのこと、と思っているのだろう。

 実際、余裕の笑みを浮かべて、綾香は動き出す。

 と言っても、距離をつめる訳ではない。その場で、動き出しただけだ。

 ヒュンヒュンヒュンッ!

 綾香の腕が、その場で素早く風を切る。ただ腕をしならせて動かしただけなのに、それだけで、えらく見栄えがいいのは、綾香の容姿の所為だけではないだろう。

 準備運動、というほどのものでもない。これも、綾香なりの戦術の一つなのかもしれない。

 そう思えるほどに、その動きは洗練されていた。実力者が見れば、その技量を測らないなど、意識しても出来ないほどに、ただの腕の動きが、十分な驚異として見える。

 手を出すだけが、何も戦いではない。手を出さないところでも、戦いは起こっているのだ。そうやって、相手の精神を疲弊させたり、自分の思うように相手を誘導したりするのは、高度な戦いでは当たり前に行われている。

 ただ、まあ、その程度の動きでひるんだり誘導させられたりするほど、坂下と綾香の付き合いは短くないし、何より、坂下の度胸と試合運びは完成の域に近いとすら言えるものだ。その程度の脅しに、簡単に踊らされる訳はない。

 だから、やはりこれはどちらかと言うと、綾香の都合で行われた動き。

 例え余裕があろうとも、先制で一歩、いや半歩でも坂下に先を越されたことを、決してなかったことにはしていないのだ。だから、自分の気持ちを切り替える意味で、見栄を切ったのだ。

 それに、例え坂下はそれに動かなくとも、観客は違う。そうやって、状況を綾香の有利に持って行くことは、例え坂下の心臓が鋼鉄で出来ていたとしても、意味がある。

 見栄は良くとも、単なる腕の動きだけで、これだけのハイレベルの戦いが行われているのだ。観客には見えずとも、浩之や葵には、御木本にも初鹿にも見える。そして、誘導させられる観客にも、効果はあるのだ。

 歓声が、大きくなる。それに気を良くしたように、綾香はさらに動き出す。

 しかし、坂下に向かって行くのはまだ早い。まだその場で止まったままの動きだ。

 とんとん、と軽くステップを踏み始めた。それは、ボクシングでよく見られるような身体を自由に動かす為のステップだった。少なくとも、拳に関して言えば最速のスピードを誇るスポーツの脚真似がどれほどの効果を発揮するか。

 もちろん、綾香が使えば、常人ではついていけないスピードになる。

 しかし、反対に、それは、坂下に今から行くぞ、と教えているようなものだった。このレベルになれば、いくら速くとも、読まれた攻撃には意味はない。そのスピードに合わせて、カウンターを打つぐらいはやってのける。

 速さのみで相手を圧倒しようとすれば、チェーンソーの異能の必殺技、不可視のスピードをさらに超える速さが必要になるのだ。

 しかも、それすら坂下の純粋な守りの前に打破される、それほど、スピードのみというのは、脆く。

 それでも、やはり、凶悪だった。

 ボッ!!

 風を切る、というよりは、風の壁を抜けるような音と同時に、綾香は坂下に向かって飛び込んでいた。エンジンを十分に暖めてあるステップは、静から動の動きに、タイムラグが少ない。来ると分かっている、スピードだけの動きではないのだ。

 が、それに坂下は、何の中途もなく動きを合わせる。綾香とは正反対、足の裏が地面から離れない、まるで滑るように同じく距離を詰める。二百キロを超えるボウガンの矢を受け、あのチェーンソーの異能の技すら受け流す坂下にしてみれば、それですらぬるい、ということなのだろう。

 しかし、今回は、綾香は坂下の読みの上を行く。

 それでも、綾香の最大の狙いはラビットパンチであることは、誰もが思うことであろう。どんなに坂下が受けがうまいと言っても、後ろから来る拳を受けられるはずがない。反対に、そうでもしないと、坂下の受けの前に、有効打などそう簡単には出ない。

 そう思う、だからこそ、綾香の動きは意表をついていた。

 綾香の腕が、下から、何のてらいもなく振り上げられる。完全に腕を脱力し、スピードによってのみの凶器となったそれが、他のフェイントすら見えないまま、坂下のあごに向かって振り上げられていた。

 いや、フェイントは、かけられている。開いた左手は、やはりラビットパンチを狙う位置にあり、しかも、坂下も来ると考えていた。それだけで、十分なフェイントだった。蹴りの間合いに入っても蹴りが来る様子がなかったので、坂下の意識が、下にはあまり向かなかった、というのもある。

 坂下が気付いたときんは、後ろに下がって、ぎりぎり避けられる距離だった。

 だから、坂下は前に出た。

 綾香の読みを、坂下は読み切った。避けられる、そう思って後ろに下がれば、坂下が読んでいるよりは、ほんの指先だけ、前に伸びて来る、と。いや、伸びてくることもある、と考えたのだ。正確には、まっとうな考えではなく、思いつきに近い。いわば、勘、だ。

 しかし、この場合、その勘が、綾香の上回った。そう、綾香は、後一先、を腕に残していた。僅かであろうが、いや、僅かだからこそ、あご先にそれが決まれば、その一撃を持って、この試合は終わったかもしれないのだ。

 前に出る、しかしそれだけで危機が全部なくなった訳ではなかった。受けるには、近づきすぎていた。何より、脱力から打たれる攻撃は、受けるのが非常に難しいのだ。受けに失敗すれば、直撃もありえた。

 だから、坂下は、真正面から、その腕にぶつかった。

 ドンッ!!

 ダメージなし、と言うにはほど遠いものの、その一撃は、坂下の内蔵を、多くは揺らさなかった。スピードの一撃は、そのスピードがマックスになる前では、威力が非常に落ちるのだ。坂下は、それを狙ってわざと前に出たのだ。

 いや、これで致命的な一撃を受ける可能性も、確かにあった。しかし、坂下は勘と考えでその中の正着を選んだ。

 何よりは。

 ズドンッ!!!!

 超至近距離から、坂下の拳が打ち出された。身体を守りに持っていかずに、そのおかげで前進の力は残ったままだった。それを、至近距離で拳に伝えて打ったのだ。

 間合いとかためとかをまったく無視した坂下の一撃で、綾香の身体は木の葉のように飛んだ。

 逃がしたっ!!

 しかし、坂下が思ったのは、その言葉だった。

 あまりにも、飛びすぎた。ダメージを逃さず身体の中にたたき込まなければならないのに、綾香の身体は、それには軽すぎたのだ。

 身体を後ろにとばしながらも、まるでステップを踏むように綾香の足先が地面についている。追撃しても、まるで今までの動きが演技だったかのように体勢を立て直すだろうし、何より、前進の力を拳に入れたのだ。それをまた瞬間で前進に変えるような魔法を、坂下は持っていない。

 お互い、必殺の威力があるだけに、連打の撃ち合い、というのにはそうはならない。なるときは、決着の着くとき、いや、もう決着が着いた後だろう。

 しかし、それにはまったく劣らないほどの、濃い試合を、二人は否応なしに行っていた。

 否、むしろ、楽しんで、それをしていた。

 

続く

 

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