ふうっ、と綾香は大きく息を吐いた。
身体全体に、神経を行き渡らせ、ダメージの状態を測る。冷静にダメージを考えれば、この後の作戦も考えられる。
こきこきと首をならしながら、綾香は構えを解いた。
いきなり無防備になった綾香に、坂下は怪訝そうな顔をするが、手は出して来ない。それはそうだ、こうもあからさまにされると、誘われているとしか思えない。
が、綾香も、ちゃんと理解している。誘いだと分かっていても、坂下ならば手を出して来ることに。今坂下が様子を見ているのは、ダメージが回復しきっていないからだ。
それは、綾香自身もそうだった。お互い、無理をすれば動けないことはない。この状態でも、十分以上の死闘を繰り広げることも、実際可能だし、後半はそうなるだろうことは疑うべくもない。
が、まあ、それでも、あえて綾香は、時間を稼ごうとしていた。
「さすが、と言ってあげるわ」
だから、あろうことか、坂下を、褒めた。
坂下は、余計に怪訝というか、あからさまに顔をしかめた。綾香との付き合いは長い坂下だ。綾香の考えはだいたい分かる。だからこそ、顔をしかめずにはおれなかった。
綾香が人を褒めることはある。多くはないが、ちゃんと他人を評価することぐらい、綾香には造作もないことだ。例え、自分がそれを超えていたとしても、評価は相対的なものだけではなく、絶対的なものでも出来るのだ。
が、坂下を褒めたことは、あまりない。坂下が目の前にいるとなれば、なおさらのことだ。友達を褒める人間など、普通でもそういないのに、それが綾香となれば、しかも坂下との関係を考えれば、それこそあり得ないことだった。
「……綾香、何考えてるんだ?」
だから、無視を決め込むことが、坂下にも出来なかった。構えていないからと言って、綾香に簡単につけいることが不可能である以上、ここで話をしたところで、何ら違いはないとは言え、試合中というのが、いささか坂下にはひっかかる。
そもそも、話すことなど、もう試合前に終わっている、と思っていたのだ。綾香が、試合中に、構えを解いてまで話をしたい、とはとても思えなかった。
「何って、褒めただけじゃない。ほんと、これだけのダメージを好恵に当てられるのは、あのとき以来じゃないの?」
あのとき。坂下は、何のことを言われたのかすぐに気付いた。間違えなど、しようはずがない。綾香が空手を捨てる、その日。綾香と坂下の、最後であるはずの、誰も見ていないところであった、誰も知らない、一試合。
善戦した、というのならば、あのときの坂下は善戦した。試合でも練習でも、ほとんど当てることすら出来なかった綾香に、何発も入れたのだ。
忘れる訳がない、あの試合とも呼べない戦いは、今の坂下を形作る全てと言っても良かった。
が、と同時に、綾香があの戦いを、そんなに気にしているとは、思っていなかった。あれが心のわだかまり、むしろ心の芯と言えるのは、坂下の方であり、綾香にとっては、なかなか相手がよくやった程度の戦いでしかない、と思っていた。
忘れることはないだろうが、そう深く覚えていることはない、と思っていたのに。坂下は、深く覚えているからこそ、先ほどの手応えが、確かに、あのとき一番綺麗に決まった中断蹴りと同じほどのダメージを当てた、というのは分かる。しかし、綾香は、適当なのか本当に覚えているのか、それを言い当てた。
綾香は、薄く、楽しそうに笑っている。
そう、身体全体に神経を行き渡らせ、ダメージを測れば、丁度あのとき受けたミドルキックほどのダメージが当たっているのに、綾香はすぐ気付いた。
「嬉しいわ、好恵。私も、あのころから見れば、かなり強くなってるのよ? その私相手に、あのときと同じだけのダメージを当ててくるってことは、好恵は、私が強くなったのと同じぐらいは、強くなって来た、ってことでしょ?」
そう言われて、坂下は、一瞬顔がゆるみそうになった。
坂下の芯は、つまり、相手がどれほど自分を重用視しているか。自分を、ないがしろにしていないか。それが、綾香につけられた傷。どれほど強くなっても、坂下を解放しないであろう、どうしようもない傷跡だ。
その傷をつけた張本人、綾香に言われれば、顔がゆるんだとしても、仕方のないことだろう。
しかし、坂下はそうは思わなかった。慌てて、崩れそうになった表情を取り繕う。
綾香は、それに気付いたようだったが、小さく、けっこういやらしい顔で笑うだけで、何もつっこまなかった。坂下としてはそれだけでかなり憤りを感じるが、話題に出せば恥ずかしいのは坂下の方なので、何も言わずに、口をへの字に曲げる。
しかし、評価されるのは、当然と言ってもいい。
綾香が、あのときから、どれほど強くなったか。想像すら出来ないレベルで、綾香は成長している。坂下と戦ったあのときから、エクストリームまでもかなり成長したというのに、その後も、綾香は成長を続けている。
それに、坂下がついていけている、というのだ。
それは、確かに凄いことで、綾香にそれを認めてもらったことは嬉しい。しかし、だ。
我慢しているのではなく、自然と、坂下の心の中は、うれしさが塗りつぶされ、怒りにも似た気持ちで満たされていく。
「あのときの私と、一緒にするな」
善戦しか出来なかったあのときと比べられてあがった、と言われても、それを褒められても、嬉しいなど一瞬だ。すぐに、自分を取り戻す。
「あーあー、まあ、そう言うだろうと思ったわよ」
綾香は、それを予測していたようで、ひらひらと手を振る。その表情が、徐々に、変化していく。微笑みの口元が、つりあがり、楽しそう、と言えば楽しそうな。
「まあ、私から言わせてもらえば……前は、ここまでだったわよねえ」
悪魔のような笑みで、坂下を、上から見下ろす。
そう、あのとき、あの中段蹴りが、最後の抵抗だった。あの後、坂下は負けた。決定的に負けた。完璧に、負けた。
「さて、前のことを考えると、そろそろ決着がつくんじゃない?」
憎たらしい声で、綾香は、坂下を揺らして来た。いや、坂下を怒らせたところで、綾香の有利に進むことはないようにも思える。
しかし、小さな棘でも、それが勝敗を決することはある。綾香のこの言葉は、確かに、言葉通り、小さな棘だった。
それでも、完璧に負けたはずの自分が、ここに立っている。だから、その矛盾を、坂下は、こう理解する。
ここに立てた以上、昔の自分と同じではないのだと。
「綾香らしくもない、そんな言葉で言わなくても」
ダメージは、そこそこに回復していた。お互いのことではあるが、まるで、綾香が坂下の身も考えて、綾香が時間稼ぎをしたかのように。
「ま、それは違いないわね」
にたり、と笑うと、綾香は、話は終わったとばかりに、ふわり、と構えを戻した。
お互いに、十分動けるほどに、ダメージは消えている。これも、綾香の作戦だとしたら。
バカな話だ、そう思いながら、坂下は、綾香をにらみつけるのだった。
続く