試合場の二人が、動きを止めて、何かを話しているようだったが、あまりにも歓声が大きすぎて、何を言っているのかまでは浩之にも聞き取れなかった。
ただ、お互いにダメージを受けて、動きが鈍っている、その貴重であるはずの時間を、綾香が坂下の会話で潰す、ということに、驚きもしたが、納得もしていた。
お互い、万全の状態で戦った方が、それは綾香にとっては楽しいだろう。
綾香は、言うまでもなく完全なサドだが、こと格闘技においては、困難であればあるほど良い、と思っているふしもある。まあ、普通の状態では、天然でズルをしているようなっ状態であるので、困難な状況、ということ自体がないのだが。
わざわざ、あんな状況で坂下に話しかけるのも、明らかに、試合を楽しむ為、お互いの回復の時間を取る為のものなのだろう、と浩之は思った。
実際、浩之の考えはそう外れてはいない。ただし、それだけではないことも確か。綾香は、坂下に感心したのは本当のことであるし、綾香が、坂下と思い出話をしたくなったというのも、完全には嘘ではないし、何より、綾香が、坂下の心に、小さな棘を刺したかった、というのも本当だ。
言葉だって、立派な武器の一つ。綾香は、ルールの範囲内であれば、どんなものすら使うことに躊躇しない。ただ、その点は、浩之は不安にしかならないのだが。
どんな劇的な効果があろうと、言葉など、かわいいもの。だからこそ浩之も、まさか綾香が、精神的に坂下に棘を刺しておこうなどと考えたとは思わなかったのだ。
綾香は、坂下に、どんな技を出すのも躊躇しないだろう。もともと、どんな危険な技でも、まったく気にせずに綾香は相手に使うが、相手が強くなると、その限度は、明らかにまずい位置にまで到達する。
坂下は、どこまで行っても、やはりその拳は空手道の拳であり、もちろん安全とはとても言えないものの、ダメージ通りの危険しかない。
しかし、綾香の出す技は違う。
ラビットパンチのころから、浩之は薄々は気付いていた。いかにそれが有効で、しかもそれを使いこなせても、普通の格闘技ならば、危険過ぎるが故に禁止されている技を、あそこまでの頻度で使う必要が、あるだろうか?
明らかに、綾香の実力を持ってすれば、もっと安全な方法で相手を倒すことが出来た。戦っているときに、そんな余裕はない、と言うかもしれない。しかし、綾香には、それが出来たはずなのだ。
もう、それは不確かな不安などではなく、直接あり得る恐怖として、浩之は認識していた。
完全に認識させられたのは、綾香とマスカレッドとの一戦だ。
あのとき、綾香は、マスカレッドを本気で殺すつもりだった。いや、殺意はなかっただろう。しかし、結果相手が死ぬことを分かっていても、技をゆるめるようなことはしようとすらしないのは確かだった。
あの、普通の攻撃が効かない防具をつけたマスカレッドに、容赦など出来ない? 普通なら、そうだ。しかし、綾香には、出来たはずなのだ。
純粋なパワーでマスカレッドの首を、防具ごとねじ切ろうとしたあのとき、防具さえ壊してしまえば、もう、あの後はネックロックなどという殺人技を続ける必要はなかった。首の接続が壊れた以上、頭への衝撃は消せなくなり、マウントポジションを取っていたのだから、上から頭を打撃で揺さぶれば、あの状態なら完勝出来たはずだ。
しかし、綾香はしなかった。結果、マスカレッドが死ぬかもしれないという想像ぐらい、ついていただろうに、まったく気にせずに、殺しに行った。消極的な殺人とすら言えるかもしれない。
この、無意味なはずの回復の時間。これは、危険過ぎる兆候だった。
徐々にダメージがお互いにたまって、限界を超えたところで試合終了。これが一番安全なのだ。普通の選手ならそんなことはないだろうが、こと、この二人においては、そう言い切れる。
ダメージは、動きを鈍らせるし、攻撃への対処を遅らせる。しかし、攻撃もダメージによって弱くなるのだ。そうやって、一度に当たるダメージが経れば、限界を超えたときのあまりは、最小のものになるだろう。
が、ダメージの回復を置いたとき、それがどうなるか。
ダメージが回復、と言っても、実際に受けた肉体的損傷が回復している訳ではない。ただ、根性を出せば動けるぐらいになった、というだけで。だからこそまずい。
体力は落ちているのに、攻撃が衰えない、それどころか、極限状態に近づくにつれ、威力は上がるかもしれない。
そうでなくとも、二人が二人とも、必殺の威力を持った技を連打出来るのだ。打撃格闘の常とは言え、一歩間違えば一発で試合が決してしまう。さらに言えば、綾香は組み技でも必殺の技を出して来るのだから、危険は二倍とも言える。
そんな二人が、肉体的損傷だけ受け続けて、攻撃がまったく衰えなかったら、どうなるだろうか?
あっさりと限界を突破し、そして突破してはいけないレベルにまで、簡単に達するかもしれない。運が良ければ、怪我程度で済むだろうが、しかし、運が悪ければ……
実際に試合場で戦っているのは、浩之ではなく、綾香と坂下なのだから、横から浩之がどうこう言える筋合いはない。浩之が出来る想像が、綾香はもちろんのこと、坂下にだって想像できていないはずがなく、お互いにその覚悟を持って戦っているというのならば。
さて、本当に、浩之が口を挟むことが、問題なのだろうか?
勝敗のことは置いておいても、浩之は、綾香に人殺しにはなって欲しくない。綾香と坂下、どちらが殺人者になる可能性が高いか、と言われれば、間違いなく綾香の方なのだ。浩之が口を挟むことで、その可能性を少しでも減らせるのならば、口を挟むべきだったのでは、と。
試合が始まる前に、言ってやるべきではなかったのか、と、浩之は、今更ながら後悔した。それで綾香が自重するかどうかは微妙なところだし、効果がなければ、単なる自己満足で終わっていただろうが、それでも、言ってみるべきだったのだ。
ただ、もう遅い。
何よりも、いつよりも、一番危険であるはずのこの試合を前に、何故言っておかなかったのか。
この試合が、おそらく、浩之が見た中で、一番危険な試合になる、と分かっていたはずなのに。
休憩とも言えない、殺気立った時間を置いて、二人が動き出したときに、浩之は、ふと、それに気付いて、そして、愕然とした。
綾香に、自重するように言わなかったことを後悔するよりも、それは、浩之の脳内を、強く揺らした。
そう、浩之は、自分でも気付いていなかったことに、今気付かされたのだ。
浩之が見た、綾香の戦いの中で、一番綾香が人を殺す可能性が高い、そう、つまり、それほどに。
綾香を追いつめるほどに、強いと。綾香を置けば、今まで見て来た誰よりも、強い、と。
弱い、とは、もちろん思っていない。しかし、坂下は、綾香にずっと負け続けて来て、そして、葵にも負けてしまった。三人の中で言えば、一番下だ、と言われても、誰もが納得するはずなのに。
今の坂下を、誰より、そう、葵よりも、強いと、浩之は無意識に、認めていた。
葵よりも。そして、綾香を、本当に追いつめるほどにまで。
そう思えば、もう、浩之はそれを否定出来ない。ありえないこと、と思っていても、どこかで何かが、ささやく。それは、浩之の無意識の、目が判断した、結果。
坂下は、綾香を追いつめる。綾香に、本当に余裕をなくさせるほどに。下手をすれば、綾香に勝ってしまうほどに、と。
続く