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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(400)

 

 再度、構えを取ったと思った綾香の動きが、とたん、先ほどまでの動きから変化した。

 先ほどまでは、ステップを踏んでスピードを出していたのに、そのステップを止めたのだ。その代わり、ぐぐっ、と腰を落とす。そして、そのまま、指の先が、地面に着く。

「あれは……」

 奇妙なその構えは、さすがにマスカレイドでもお目にかかったことのない構えだろうが、浩之はその構えに身に覚えがあり、正直、隠れたい気持ちになった。浩之が、考えた末とは言え、やぶれかぶれに使っていたクラウチングスタートのタックルの構えだったのだ。

 正確には、もう少し洗練されている。その姿は、獲物に向かって草むらから飛び出そうとするチーターを思わせるような、しなやかさが見て取れる。

 とは言え、その構えが、スピードにおいてはともかく、そんなに効果のある技だとは、使った浩之本人すら思っていなかった。

 何故なら、横に回り込まれてしまえば、何にもならないのだ。

 腰を落としてスピードを上げるのは、別に間違いではないのだろう。例を出せば、相撲はもろにその格好になる。あそこから繰り出されるぶちかましは、身体全体がぶつかっていくとは思えないようなスピードが生まれる。

 だが、その相撲さえ、横にいなされることもあるのだ。相撲には様式美のようなものがあって、そうやって横にいなすだけでは強いとは見なされないところもあるが、マスカレイドでも、他の格闘技の試合でも、そんなことはない。真っ正面から来るタックルなど、横に避けれるのならば、避ければいいのだ。

 もっとも、総合格闘技のタックルは、かなり低い位置に来るし、基本は相手が動けない状態か、カウンターのようなものを狙うことが多いので、横にいなす、というのは難しいが、上からつぶされることはしょっちゅうだ。

 打撃系対組み技系ならば、組み技系の選手は、当然タックルを狙ってくる。つぶされたり避けられたりするとしても、相手を押し倒すには、やはりタックルが優秀であるし、少なくとも、避ける、という部分では、タックルはその心配が少ない。

 ただ、この場合は、どう評価していいのか、微妙なところだった。

 綾香対坂下は、打撃系対組み技系ではないのだ。綾香は組み技も高レベルで戦えるが、得意なのは打撃系なのだ。例え、打撃一辺倒の坂下相手でも、いや、相手が打撃のみだからこそ、打撃で戦うのが、綾香らしいと言える。

 それなのに、最初にダメージを当てたのは、投げ。そして、まだ組み技を狙って行こうとしている。

 ここまで腰を落とした状態から、打撃に変化させるのは、さすがに難しすぎる。タックルのスピードを上げるかわりに、他の動きに制限がある構えなのだ。

 綾香らしく、ないのだ。何を考えているのか、浩之には検討もつかない。組み技の方が楽だと思っているのか、それとも、打撃で坂下と戦うことに、不利を感じているのか。

 それに、致命的なことなのだが、この構えは、構えの状態のときに横にまわられると、何も出来ないという問題がある。タックルを狙うだけならば、そう悪くもない手なのだが、それにはリスクが高すぎるからこそ、浩之はあまりこの構えを多用しない。

 それが、ここに来て綾香がこれを使う意味が、正直浩之には分からなかった。

 そして、さらに分からないのが、その構えを見ても、坂下が、綾香の横に回ろうとしないことだった。

 横に回る動きで攻めれば、どうしても、綾香の方が遅くなる。これは綾香でも覆せない。速いとは言っても、理を力づくで押さえるならばともかく、反発してまで結果を出すことは、怪物の綾香にすら無理なのだ。

 それなのに、坂下は、横にまわろうとしない。自分にとって有利な動きをしない。どちらの意図も、測りかねる。

 そりゃまあ、俺が全部読めるような戦いを、あの二人がしてくるとは思わないけどな。

 理にかなう動きを、後から考えれば、浩之も二人の思考を追うことも出来る。しかし、一から十まで、その意図が分かる訳でもないし、そもそも、理すらねじ伏せて来ることのある二人に、浩之がついていける訳がないのだ。

 この中で、もし、あの二人についていける人間がいるとすれば、浩之の横で、真剣に試合を見ている葵か、坂下に負けたものの、その異能によって長くマスカレイドの一位の座を守り続けて来たチェーンソーの中身、初鹿ぐらいのものだろうか。まあ、どちらにしろ、浩之とは世界の違う話だ。

 だが、浩之は、その違う世界に、手を伸ばさなければならないのだ。浩之の目標は、そうでなければ、達成されない。

 その、浩之の最終目標である美しい怪物が、動いた。

 動いた、と言っても、もうそれは、一瞬というのも生ぬるい、あれだけの質量が、人間の手で何であんなに速く動けるのか、と思うほどのスピードで、動いたことを、すぐには皆理解出来なかった。そのスピードで、坂下に向かって綾香は突っ込んだ。

 だが、坂下は、それにすら冷静に対処していた。

 タックル殺しの手刀も肘も出す必要はなかった。今の坂下ならば、その膝一つで事は済む。

 チェーンソーにとどめを刺した、踏み込みと同時に放たれる膝蹴りだ。ただ前に出るだけのような動きの中に、異能を屠るだけの威力の込められた、これほど分かり難い技もないだろうと思われる技だ。何より、これは脚が浮かないので、隙が非常に少ない。タックルなど、その餌食だ。

 しかし、綾香だって、そのまま何も考えずに突っ込んだ訳ではない。だいたい、いくらスピードがあろうとも、真正面から来るものは、坂下にとっては何ら驚異でないことぐらい、綾香には理解できていることなのだ。チェーンソーの異能の必殺技すら、その前にはあえなく「受け」られたのだから。

 坂下の膝よりもさらに前で、綾香は動いていた。低い体勢のまま、地面に手をつく。

 そして、そこで、前進の力を、殺した。

 これは、もう完璧に理にはかなっていない。フェイントとして、前進の動きを止めた、と言えば当たり前にも見えるが、その手段が、すでに冗談にしか聞こえない内容だった。一瞬聞けば、別段不思議に思わない内容だが、明らかに異常だった。

 人間の手は、脚の代わりなど、出来ないのだ。

 鍛えれば、人間の腕は、人一人を支えることは可能だ。それに意味はないだろうが、もしずっと逆立ちで過ごせば、そこそこまでは行ける。しかし、それが脚の代わりになることは、一生ない。

 パワーの問題だけの問題ではないのだ。人間の構成上、明らかに無理があった。

 その大きな一つを、綾香は無理矢理ひっくり返した。それは、衝撃を吸収する、という脚の機能だ。

 人間の脚にあるアキレス腱は、強力なスプリングのような役割を果たす。足が地面につき、その、もう以上に大きな力を、そこで吸収、その力で、脚を押し出す。助走をつけて高く飛ぶ動きは、この恩恵を受けているのだ。

 しかし、もし、これを腕でやればどうなるか?

 一発で手首が「逝く」。ただ受け身を取ればいいというものではない。それを力にしようと思えば、腕でそのパワーを吸収しなければならないのだ。残念ながら、人間の腕の腱には、アキレス腱ほどの衝撃吸収の能力はない。

 そこで一瞬前進する動きが阻害され、その所為で、坂下の膝は、綾香がそこに到達する前に打たれて、空を切っていた。それでも、坂下のバランスは崩れない。膝が当たらないのならば、最初から放つはずであった手刀が、上から繰り出されるだけのはずだった。

 が、綾香は当然、そんなへまもしなかった。その後の行為は、当然、という言葉がつくほど、簡単なことではないのだが。

 地面にについた腕は、普通はありえない、その衝撃を腕でスプリングのように吸収して、そこから、押さえつけられたスプリングがそうであるように、強い力を生み出し。

 手を地面についた格好そのままで、下から坂下に攻撃されるよりも素早く、蹴りを放っていた。

 

続く

 

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