手を床につき、下から突き上げるように蹴る。綾香は、その動きを、今までも何度か行っている。普通はそんな体勢から、不意をつくことは出来ても、スピードを出すというのは無理があるが、それが出来る綾香にしてみれば、普通の攻撃とも言える。
ただ、それを相手の攻撃に合わせる、となると話は違ってくる。そもそも、身体全身を使わなければ打てない技を、カウンター気味に狙うこと自体、無茶であり、しかし、だからこそ有効だった。
坂下の膝は、確かに見た目には動きは少ないが、それは相手に気取られないとかそういうものを考えての結果ではなく、ただ結果として動きが少なく見えるというだけで、簡単に放っているようで、そこには全身の力が込められていた。だからこそ、撃った後にすぐに返す刀で、というのは難しいのだ。
そこを、綾香は狙った。まあ、腕で身体の前進を止める、という動きがそもそもおかしいので、それを坂下が予測できなかったのは、仕方ないとも言える。
シュバッ!!!!
緩慢な動きになってもいい形であるのに、綾香の蹴りは、空気を裂く。しかし、坂下を裂くことは出来なかった。
踏み込みと同時の膝は、動きほど隙のない技ではないし、リーチが短いという欠点はあるが、後に踏み込みが入る分、空振ってバランスを崩す、ということがない。そして、下半身がしっかりしているならば、頭に来た蹴りを避けることが、坂下には出来る。
これがもし、胴体への攻撃ならば、当たっていただろう。しかし、距離もあれば、自由に動くことも出来る頭部を狙ったのは、綾香の間違いと 言ってもいいだろう。確かに、下からあごを蹴り上げれば、それで決着だろうが、避けられる可能性は、頭部の方が格段に高かった。
いくら綾香でも、その体勢からのコンビネーションはない。とたん、綾香の方が、状況的には不利になる。坂下よりも攻撃態勢になるのを急がなければならないが、坂下は少なくとも、足が地面についているし、バランスを崩している訳でもなかった。先に体勢を立て直すのは、坂下の方だろう。
そして、坂下の方が、体勢を立て直すのは、早かった。反対に、綾香の身体は、まだ蹴りを放った体勢のままだった。
坂下は、迷わなかった。素早く両腕を引きつけ、腰を回転させる。
ズバシィッ!!
綾香の目に、驚愕の色が混じった。それは、本当に珍しいことだった。浩之だって、一度も見たことがないのだ。
逆立ちをしたような格好になっていた坂下の身体は、凄い勢いで、横回転をしながら、後ろに飛ぶ。と、それでもまったく平衡感覚をなくさなかった綾香は、回転している中から脚を伸ばして、地面をつかんだ。
床にはじかれるようにしながらも、綾香はそのまま体勢を立て直した。起こったことを考えれば、手をつくとかその程度のことは最低でもあっていいのに、宙ですら、綾香には自在に動けるかのようだった。
いや、そこもそれで凄いのだが、今は、それが一番の問題では、なかった。
「……見せたこと、あったっけ?」
綾香は、静かに、笑みとはとても呼べない表情で坂下をにらみつけながら、聞く。
「ないね」
坂下は、おごるでもなく、警戒するでもなく、ただ、綾香を見つめながら、端的に答える。
「そうよね、私の記憶にもない……だったら、初見で受けたって、こと?」
「……」
今度は、坂下は答えなかった。しかし、らしくもない、という表情で、綾香を見つめている。
しかし、観客達のほとんどは、綾香と坂下の会話に、置いていかれていた。この試合は、スローモーションも解説もなしでは、正直難解過ぎる。
とりあえず、綾香の下から突き上げる蹴りを、坂下が避けた。そこまでは、だいたいの観客は理解出来ていた。しかし、その後、綾香が吹き飛ぶようになった経過が、理解出来なかった。坂下が攻撃する番にはなったのだろうが、坂下が攻撃したにしては、綾香にダメージらしきものが見えないのだ。
少なくとも、その会話を聞けば、綾香と坂下の知り合いならば、不可思議に思ってもおかしくなかった。下から突き上げる蹴りは、綾香は何度も使って来ている。見た目も派手で、威力もあって、しかも相手の意表を突けるとなれば、綾香が使わない理由がない。それで決めた試合があったかどうかはともかく、便利な技であり、坂下だって何度も見ているし、何度もかけられた。
だから、初見、ではないのだ。しかし、だったら、綾香が何か他に技をかけたことになるし、それを坂下が受けたことになる。しかし、それが、観客には分からない。
いや、浩之だって、初見であれば、分からなかっただろう。だが、浩之は、坂下と違って、初見ではなかった。見たことがある技だった。だからこそ、理解出来たのだ。
完全に見えた訳ではなかったが、それしかない、と浩之は判断していた。その状態で出せる技がそれしかないことと、もう一つ、浩之が判断材料としてあげることがあった。
綾香の動きとは別に、坂下の動きは、浩之には見えた。だから、坂下が腕を引きつけ、腰を回転させ、自分の後ろを守るように動いたのを、確かに見た。動けるようになった坂下が、攻撃よりも優先させたのは、それが、致命的になると理解していたからだ。
理解? いや、初見でそれはない。むしろ、勘に近いものだったのだろう。だが、坂下はその勘に、千載一遇のチャンスをかけることに躊躇しなかった。少しでも躊躇したり、攻撃に転じていれば、坂下は、倒れていただろう。
坂下でも、一撃の元に倒してしまうだろう、しかし、理解の出来ない技。イメージを大切にする為に、綾香の命名は、この際無視する。
ラビット・キック。
蹴った後に、膝から先を曲げて、相手の後頭部を蹴る。坂下が内に入るように避けたからこそ、地面に手をついた状態でも放てたのだろうが、綾香が、そう坂下を誘導したことを、浩之は疑っていなかった。
ラビットパンチと同じく、相手の後ろから来る、回避不可能の技。しかも、狙う場所が後頭部であり、危険過ぎることから、ボクシングに関わらず、かなりの打撃格闘技で禁止されている箇所を、人体でも特に堅い踵で蹴りつけるのだ。
坂下が、どれだけ素早く攻撃に転じたところで、綾香のラビットキックは、先に坂下の後頭部に当たっていただろう。坂下が打たれ強かろうがどうだろうが、そんな急所に当たってしまえば、どうにもならない。だから、受けた。
しかし、綾香だって、受けられたからと言って、そのままでいた訳ではない。その細腕から人外のような力をひねり出し、床をつかむようにして蹴りの威力を上げたのだ。結果、坂下はまたも正しい正解をする。両腕であろうとも、脚の全力を真正面から受けるには合わない。威力を、受けて逃がしたのだ。
その蹴りの威力分、綾香の身体は横にきりもみ状に回転することになった。坂下が、綺麗に威力を受け流したことと、そうでもしないと、受けた腕を力づくではじいて入れるつもりだった綾香の技の威力が、それを起こしたのだ。
初見では、まず防御されることがないどころか、何度見ても防御など出来ないのでは、と思えるラビットキックを、坂下は、当然のように受けきってみせたのだ。
だから、坂下は誇ってもいい。綾香が、驚愕の表情をしたのは、ラビットキックを、坂下が受けたからなのだ。浩之も見たことのないような表情を、坂下は、今綾香にさせているのだ。
そして、それよりも、坂下にとっては重要なことが、あった。
坂下は、気持ちを落ち着けるように、二度三度深呼吸をしてから、しかし、我慢しきれなくなったように、言った。
「今度は、終わらなかったよ」
続く