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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(403)

 

「もしかして、私の前に立つのが、怖い?」

 坂下の言葉に対する綾香の答えは、静かなものだった。だからと言って、それが穏やかなものではないことぐらい、言葉の内容を聞けば一目瞭然だった。

「へえ……」

 坂下の言葉を聞いた瞬間、綾香の目が、細まる。それも当然だろう、言う者どころか、それを聞いた者すら、聞くことだけでも躊躇してしまうような、爆弾発言だった。

 ましてや、言われた者の心中は、いかばかりのものか。挑発にしても、それはあまりな言葉だった。

 確かに、綾香はほとんど坂下に正面から向かって行っていない。安易に懐に入れる相手ではないので、何度か攻防を経由しなくてはいけないということもあるが、坂下の言うことは、事実だけを見れば、完全に嘘、とは言えない内容だった。綾香が、正面から来ていないのだけは、事実だ。

 だた、坂下の前に立つことを、恐れているか、と言われれば、それは、どうなのだろうか?

 怖くない相手とは、お互いに言えない状況ではある。お互いに必殺の技を持ち、お互いに必中の技能を持つ。決まれば強かろうが弱かろうが、実力の差など平気で突き抜けていくものを、二人は手にしている。素手であろうが、何の迷いもなく凶器と言い切れるものを手にしているのだ。いや、ただ人が武器を持ったよりも、よぼど危険だろう。

 しかし、ここで言う怖い、というのは、そんな当たり前のこととは、話が、違う。

 単純に危険視しているという意味だけにはとどまらない。坂下の前に立つことを恐れるということは、つまり、坂下の打撃を恐れている、ということになる。

「つまり……好恵は、自分の打撃の方が、私の方よりも上だ、と言いたい訳ね?」

 ただ坂下を恐れるのならば、程度の差こそあれ、嘘ではないだろう、しかし、坂下の打撃を恐れるとなると、話は違う。綾香の打撃と、坂下の打撃を比べたときに、坂下の打撃の方が強い、だから恐れているという意味になる。

 当然のことだが、綾香に看過出来る内容では、ない。

「いや、そう思ってるのは、綾香の方だろ。怖がってるのは、そっちの方なんだからな」

 綾香の目が、危険なものになっていることぐらい、分かっているだろうに、坂下も一歩も下がる気はなさそうだった。

「……へえ、あくまで、私を挑発するつもりなんだ。あんまり口で戦う人間じゃないと思ってたんだけど、私の思い違いだったみたいねぇ」

 ふふふふふっ、と綾香は唇をつり上げて、静かに少し笑った後、笑いを顔に貼り付けたまま、坂下を、鋭い眼光で、にらみつけた。

「命、いらないようね?」

 ビキッ、と空間がゆがむ音が、聞こえたような気がした。もちろん、錯覚なのだが、しかし、錯覚ではあっても、ここにいる者全てを凍らせるぐらいの力は、十分にあった。

 さすがに、こうも二人が話を続けていると、内容を知りたいのか、観客達も、だいぶ歓声を落として、聞く体勢に入っている。しかし、それが今回に限って言えば、完全に恨めに出た、と言っても良かった。

 言葉を聞かずとも、そして自分に向けられるのではなくとも、人を恐怖で震え上がらせる綾香の殺気が、その理由つきで、観客達を襲ったのだ。

 殺気なんて、漫画の中だけのこと、そう思っていた時期が、私にもありました。などと考えながら、浩之あたりは達観して、もう少し正しく言うとあきらめて眺めているが、免疫のない一般人はそういう訳には、いかない。

 それでも消えなかった歓声が、綾香の殺気によって、完全に消えていた。観客達は、おそらくは声を出せば、自分が殺される、と思っているだろう。それほどの、明確に殺意のプレッシャーが、綾香から放たれている。

 まわりを見ると、さすがに葵や初鹿あたりは平気まではいかないまでも、十分耐えているようだし、驚くべきことに、ランも何とか耐えているようだった。坂下の知り合いである御木本も耐えられているようである。

 御木本のことは知らないものの、ラン程度、と言っては悪いが、ランが耐えられているのは、何も不思議なことではない。ランは、これよりも、よほど怖い思いをしているのだ。そのときの経験が、ランにその殺気に耐えさせる。

 あのときよりは、怖くなどない、と。

 いつか、綾香が、浩之に送った、明確な殺気。こんな殺気など、それに比べれば、どこか社交性すら感じるものだ。実際、これは綾香と坂下とのコミニケーションの一つでしかない。臆病なランが、綾香から逃げるのではなく、綾香を倒すしかないと決意させるほどの、それほどの絶望を生ませる人を殺す意志と比べれば、こんなもの、何でもない。

 証拠に、綾香は、怒っているのは確かだし、殺気を坂下にぶつけているのも事実だが、どこか楽しそうですらある。それは笑みが消えないとか、そんな表面的な意味ではなくて、綾香の性癖みたいなものだ。

 綾香はただ、自分と同じ舞台に立ってくる人間を欲しているのだ。

 自分の能力への自負とか、下に見られることを看過できないとか、そういうわがままな部分をさしおいて、綾香には綾香の、どうしようもない性癖というものがある。

 坂下は、自分をないがしろにされることを無視出来ないように、綾香は、自分と同じ舞台に立てる人間のことが、好きでたまらないのだ。それは、坂下ほどせっぱ詰まったものではないけれど、坂下よりも、よほど歪んでいる。

 同じ舞台に立つ者が、何より好きで、それを自分の手で蹴落とすことが、何よりの楽しみなのだ。

 言い方を悪くすれば、人を絶望させることを好むとも言える。綾香と同じ舞台に立つということは、それが自己の存在意義ほどにも拘っていなくてはたどり着けないのだ。それを、壊す。何と痛快で、何と残酷な欲求だろうか。

 ただし、良く言えば。

 綾香は、打破することを、何よりも好む。

 もともと、綾香ほど、王者というに合うものもいないが、綾香ほど、その欲求として、王者とかけ離れた存在はない。

 綾香は、挑戦することが、何よりも好きなのだ。

 それは、綾香の経歴を見れば、簡単に理解出来る。

 空手を始めたことそれ自体は、別に理由があったかもしれないが、それからの行動は、安定を望む人間の行動ではなかった。いや、どんな理由があれ、そもそも、女の子が空手をしよう、と個人的に思うことから、変わっているのだ。

 そして、空手で王者になってしまえば、もう空手には何の未練もなく、次の挑戦、エクストリームに走る。空手にいれば、少なくとも後五年は敵なし、いや、女子の空手人口だけを考えるのならば、ずっと王者でいれたかもしれない。しかし、そんなものに綾香はまったく興味がなかった。

 エクストリームだって、後二回も自分を脅かす存在を見つけられなければ、あっさりと見捨てるだろう。綾香にとって、勝つのはむしろ当然であるばかりか、勝ちが見えた瞬間に、興味が薄れていくのだ。

 そういう意味では、今の状況は、面白い。

 一度は、見捨てた存在、見限って、もう楽しめない、と、もう綾香に挑戦させるような要素は何もないと思った空手から、葵が出て来たことは楽しい話だったし。

 個人的にも、もう見るものはない、と思った坂下が、よりにもよって、綾香よりも自分の方が打撃が上だ、と言いながら、自分の前に立っていること。

 これは、綾香にとって、大変興味深かった。

 つまり、これを、綾香は打破すべきものだ、と認めたのだ。

 坂下が、自分が挑戦するに足る、と、綾香の性癖が訴えかけているのだ。これが、綾香にとって面白い状況でなくて、何が面白いと言うのか。

 旧友との、少しばかりのお遊び、そういう気持ちが、綾香には多少なりともあった。しかし、そんな検討違いな気持ちは、もう、残っていなかった。

「もうちょっと遊ぼうかと思ってたけど」

「ふざけろ、遊ぶ暇なんて、私が与えると思ってるの?」

 面白い、面白い、と綾香は口元をつり上げる。強いとは思っていた、十分強くもなったとも感じていた。しかし、それだけでは、まだまだ評価が低かったということだ。

 十分に、存分に、遺憾なく綾香は、坂下を評価した。評価したからこそ、もうやることなど、決まっていた。

「じゃあ、いくわよ」

 

続く

 

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