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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(405)

 

 坂下を倒すのに、十分。

 マスカレイドに、無名の癖にマスクすらかぶらない彼女が出てからというもの、マスカレイドの観客達は、彼女に圧倒されていた。

 アリゲーターを倒し、カリュウを倒し、そしてチェーンソーを倒した。マスカレイドは、彼女一人に、表でも裏でも有名でもない少女に、蹂躙されたと言ってもいい。

 そんな坂下をつかまえて、本気を出せば十分、と綾香は言う。

 知名度で言えば、それは、格闘技ファンに来栖川綾香の名前を知らない者はいない。しかし、ことマスカレイドだけで言えば、無敗の一位を破った坂下の方が上だと思われている。何故なら、彼女は一位だからだ。

 しかし、二位の綾香は、負けているはずの綾香は、十分、と言った。

 余裕、と言わなかったことを喜ぶべきなのか。普段の綾香を知っている者ならば、そう思っても不思議ではないいつもの台詞だ。綾香は、そのビックマウスを閉じるような殊勝なことはしない。そんなことをする綾香を見つけたら、間違いない、偽物だ。

 そう、いつもの台詞。しかし、坂下には、いつものこと、と流すことが出来ない。

 坂下は、今までは、打撃を受けることが出来る、と思っていた。少なくとも、守りにまわれば、ずっととは言わないまでも、長い間持たせることぐらいはできる、と。

 もちろん、そんなことは出来ても何も意味はない。だから、坂下はそれを誇ろうとは思わない。

 いい勝負では、駄目なのだ。勝たなくてはならない、勝たなくては駄目なのだ。守れば長続きするかもしれないが、手を出さなければ、勝てない。重要なのは、負けないことはなく、勝つことなのだ。

 だが、それだって、何とかするつもりでいた。受けれるということは、交差法やカウンターを狙うことが可能だということだ。綾香だって、攻撃すれば隙は出来る。そこに必殺の一撃をたたき込むのが、坂下がやらなければならないことなのだ。

 だが、先ほどの攻撃では、坂下に、攻撃の機会は得られなかった。受けるのに精一杯で、交差法など試す余裕はなかった。それで守りが間に合ったからこそ、今こうやって立っていることが出来ているのだが、しかし、それでは駄目なのだ。

 まずいなどというものではない。それは、本当に死活問題になるほど、坂下には厳しい状態だった。

 その坂下の焦燥を、綾香は、にこやかに笑う。

「で、誰が怖がってるって?」

 坂下に絶望を与える為に、わざと今まで打撃をひかえていた、そう言われてもおかしくなかった。綾香は、確かにそうやって相手を壊すことを、何とも思わない。どころか、どこかそうやって絶望させることを、楽しんでいるきらいすらある。

 残忍、と言っていいだろう。綾香は、戦うときに、壊すことを躊躇しない。今まで、綾香と戦って致命的なものを受けなかったのは、たまたま運が良かったのと、綾香に、明確な殺意がなかったからだけなのだろう。

 しかし、肉体的にはともかく、精神的には、どれほどのものを、今まで壊して来たのか、想像すらつかない。それは、綾香の最初の格闘経験がそうさせるのかもしれないし。

 結局、綾香は最初から、そういう生き物なのかもしれない。

 綾香の攻撃は熾烈ではある。しかし、それが、あの鉄の虎、坂下に、どれほど効くのか。

 そんなもの、綾香にはどうでもいい話だった。

 それでも、二人の実力は、結局拮抗するだけの差しかないはずなのに、綾香は、まったく前に出ることを、躊躇しなかった。そして、それは満身でも自信でもなく、単なる冷静な判断であった。

 坂下は、守っていても意味がないことはすでに理解していた。だから、同じく距離を詰めようとした。攻撃すれば、活路は開かれる可能性は十分にある、と判断したのだ。

 しかし、それを簡単に許す綾香ではない。だから、まっすぐに、坂下に向かった。

 わずかに、坂下の前進の力が、弱かった。坂下が行こうと思ったよりも、弱くなった。それは、何も坂下が精神的に押された、という訳ではない。単純に、ダメージが坂下の動きをわずかに鈍くしたのだ。

 最初のアッパーが、まずかった。何とか受けたとは言え、完璧というにはほど遠い。それに対して、綾香のアッパーは、必殺の威力があった。それでもその後の攻撃を受けた坂下は凄いのだが、しかし、ダメージを全て回復する、というのは、多少話をするぐらいでは、不可能。

 いくらやせ我慢したところで、ダメージそのものをなかったことには出来ない。精神力があろうがなかろうが、ダメージはどこまで行ってもダメージ。それでも、その程度しか表に出ない坂下の凄さは、やはり目を見張るものがあるのだが。

 綾香相手には、致命的だった。

 僅かな差、しかし、その僅かな差で生まれた意識と現実との差異は、綾香を相手するには、大きすぎる過失だった。

 坂下は、為す術もなく、綾香にアドバンテージを取られる。来ると分かっていても、身体が動かないのでは、いかな坂下と言えども、どうしようもなかった。

 綾香から繰り出された拳を、よけれる、と判断して、坂下は愕然とした。いや、実際のところ、愕然とする暇すらなかった。そんな余裕、坂下にはもうなかった。

 避けては、駄目なのだ。もともと、打撃は全て受け流すつもりでいた。もし避けるのならば、後ろに避けるしかない。でなければ……

 自分のすぐ横を、綾香の拳が通り過ぎるのを感じながら、坂下は勝手に動かないはずの身体が動いていた。攻撃に出るべきはずの引いた右腕が、受けれないと判断した瞬間に、後頭部に回されたのだ。

 受け流すことに失敗すれば、来るのは、後ろからの、ラビットパンチ。

 綾香のラビットパンチは危険過ぎる。ただでさえ、後頭部を殴るというのは、打撃の格闘技ですら反則とされるような危険な行為なのだ。いや、危険だからこそ、と言うべきか。さらに、綾香のそれは、後ろから、見えない位置から繰り出される。普通は、避けられるものではない。

 そして、腐っていようがどうであろうが、今綾香が本気を出しているのは間違いなく、そうなれば、まさに必殺を超え、殺人の技となるだろう。

 それを、坂下は、受けようとしたのだ。後頭部を腕で覆い、来るラビットパンチの力を受け流す。見えなくとも、感じることは出来る。であれば、受け流すことが出来る。ストレートの時点で受けるなど、この受けを隠す為の、目くらましでしかない。

 しかし、坂下は、次の瞬間、自分の受けが失敗したことを理解した。

 感じられなかった。綾香の、ラビットパンチを、感じることが出来なかったのだ。あの、チェーンソーの異能の必殺技ですら感じた坂下を持ってしても。

 繰り出さなかった技を感じるというのは、無理だった。

「!?」

 坂下は、避けた拳が、坂下の横を通り過ぎ、綾香に引きつけられるのを感じながら、自分の失敗を悟った。

 綾香は、ラビットパンチを打たなかったのだ。だから、いかな坂下とて、それを受けることは不可能。

 そして、坂下は、一方的に、本当は最後の手段であったはずの「ラビットパンチを受け流す」という手を、見せてしまった。しかもそれを不発にしてしまった。

 綾香のワンツーのもう片方が、避けた坂下の顔の横を通過する。今度は、そのラビットパンチを感じられる。見えないはずなのに、軌跡すら、予測出来る。

 しかし、いくら詳しく認識出来ようが、完全に動きの裏をかかれた坂下には、何の術も、もう残っていなかった。ただ、綾香のしたり顔を、にらみつけるのがやっとだった。

 何もかも、すでに手遅れ。

 スパンッ!

 切れるような音と共に、綾香のラビットパンチが、坂下の後頭部を、打ち引き抜いた。

 

続く

 

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