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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(407)

 

 音自体は、目立つものではなかった。おそらく、歓声が二人の戦いに気圧されて途絶えていなかったら、聞こえなかっただろう。打撃音の方が、よほど大きいぐらいだ。

 だが、音が目立たなかろうが、大きな動作ではなかろうが、そんなもの関係ない。ようは、それがいかに重要なのか、ということだ。そういう意味では、その動きは、十分過ぎるほどに、重要。

 顎が、開く。

 浩之だけではない、集団幻覚でも見ているのか、皆に、その姿が見えた。膝と手をついて起きあがれもしない坂下から、言い様のない圧迫感を感じる。声を出すことも出来ない、ただ、見入るしかない。人で在らざる者を見たときは、人間の行動など、皆似ているということなのか。

 息をするのも忘れて、浩之は、坂下を凝視していた。それは、他の者も同じこと。葵などは、全神経を全て、倒れた彼女に送っている。

 その圧迫感に、一人だけまったく影響を受けていないように、金網まで跳ね飛ばされた綾香は、背中を金網から離した。ただ、膝をついている坂下に向かって、追撃をする様子はない。待っている訳ではない、ただ、今行っても、倒せないことを、綾香は理解していた。

 綾香がすぐに追撃しなかったのを、躊躇と呼ぶことは出来るかもしれない。しかし、綾香は、このときこの行為を間違ったものとは思っていなかった。顎が開いたのは確かで、そこに無策のまま突っ込むほど、綾香は無謀でも無策でもない。

 そうこうしている間に、もう片方からも、坂下にとっての拘束具が、外される。

 両手から、ウレタンナックは外され、それは無造作に床に落とされた。それを合図に、坂下は膝を床から離して、立ち上がった。まだ、身体がふらついていた。当然だろう、綾香の手加減なしのラビットパンチを、直に受けたのだ。立ち上がれること自体が奇跡的なことなのだ。

 だが、綾香は警戒を解かない。かと行ってやっきになって攻める訳でもない。こうなってしまえば、後は油断さえしなければ、真っ正面から攻めきれば勝てるだろうに、綾香はその手段を取らない。

 いや、坂下が、その手段を執らさないのだ。倒れていようが、ダメージを受けていようが、相手が危険を感じるほどの戦力を手にしていれば、問題などない。当たれば、それで逆転は可能なのだ。

 肌をさらした両の手がゆらりと動く。それは、まさに虎の牙と言っていいだろう。その一撃は、人間ごとき獲物に、二撃以上を必要としない。一度刺されば、そのまま相手を食いちぎるまで離れない、獣の牙に似ている。

 しかし、それを持ってなお、綾香を止めるには、足りない。一撃で仕留めるだけの威力を出せる相手など、綾香は掃いて捨てるほど、と言ってもいいぐらいの数、相手にしてきた。エクストリームで限定すれば、そのことごとくを、綾香は例外なく真正面から打破して来た。

 坂下の素拳は、確かに危険だ。人間が武器を持つのにも等しい、いや、それ以上かもしれない。マスカレイドでも、それを何度も見せて来た。現在の空手の試合では、その力を存分に発揮する機会はないとは言え、ここはウレタンナックルやグローブをつける必要のない場所、坂下には、こちらの方が似合っているとも言える。

 だが、普通の綾香の言動から言えば、ただそれだけ、ということになる。

 当たらないのならば、その威力は、ないに等しい。

 打撃は無理でも、組み技であれば、素人でも綾香を倒すことは出来る。ただし、技が決まれば、だ。綾香の技術を相手にすれば、素人どころか、プロだって組み技で倒すというのは至難どころか、下手をすれば自分が返り討ちだ。

 まして、ダメージを受けていればなおさらだ。組み技ほどではないにしろ、打撃だってダメージを受けていれば雑になる。ダメージをまったく無視できる人間など、ありえない。我慢や興奮でそれをなしえたとしても、身体が自由に動かないのでは、やはり同じこと。

 だから、綾香が攻めなかったのは、実に単純なこと。今の坂下には、自分に打撃を当てるだけのものがある、と見て取ったからだ。膝をついていることや、ダメージを受けていること、自分とのダメージの差などを総合的に見れば、明らかに綾香の方が有利であろうとも、綾香が出来ると思えば、それは嘘ではなくなる。嘘ではない以上、綾香は自分の見立てを信じた。

 そして、それをダメージの入っている動きの鈍った頭でも理解しているだろうに、顔を上げた坂下は、構えを取りながら、火のついた瞳を、綾香に向けてしゃべる。

「待ってくれたんだ。優しいねえ」

「言ってな」

 はっ、と綾香はらしからぬように吐き捨て、構えを変化させる。

 完全に攻撃に特化した構えを、綾香は取る。角度の深い左半身に、両腕をかなり身体に引きつけた構え。守りには向かないが、高威力の技を、連続で出せる、完全な打撃攻撃特化の構えだった。本気を出したという綾香の、フットワークすら使わない、爆発的な動きのみを絞り出す移動法と組み合わされば、それで押し切れない相手などいない、と言える構えだ。

 自然体から狙い撃たれるカウンターと、攻撃特化から生み出される連続技。綾香はその両方を使い切ることの出来る怪物ではあるが、その両方を同時に使えるほどには無理は効かない。何せ、構えはどちらか一つしか取れないのだ。

 だから、効果だけで言えば、両方を同時に取ることが、綾香には出来る。

 連続のコンビネーションから、それすら貫く様に突破してくる相手に、カウンターを決める。綾香なら、それぐらいのことはしてみせる。連続技の有効性は、相手が技の処理をしきれなくなることだ。それを超えてくるというのは凄いことではあるが、だからこそ、そのギリギリの線でのカウンターの効果は高い。

 綾香にしても、今までそこまでを必要とする相手と、ここまで戦ったことはなかった。

 だが、今の坂下相手ならば、そこまで行くこともあるだろう、と綾香は漠然と感じていた。綾香が本気を出したように、坂下も、ウレタンナックルを外して、本当の意味で坂下を生かして来る体勢になったのだ。ただでは終わらないだろう、と。

 大きなグローブをつけているならばともかく、ウレタンナックルの小さな防具で、ここまで攻撃に特化した構えを取ることは、異様とも言える。しかし、綾香は、どんな攻撃すら手を使わずに避ける自信がある。すり抜け、そこにカウンターを入れる自信がある。であれば、守りの腕など必要ない。

 対する坂下の構えは、やはり異様というか、特殊というか、どんな試合でも見たことのない構えだった。

 構え自体はいい。浅い左半身、左腕が前、右腕が後。すぐにも相手を蹴れるように、左脚は僅かに浮いている、空手では基本の型の猫足立ち。わずかに開いた拳が、手の甲を下に向けて構えられているのまでは、しごく普通。それだけ言えば、何も不思議な構えではない。

 だが、坂下の構えはやはりおかしかった。

 左腕は、心持ち前。防御の為の位置に近い。右腕は、心持ち後ろ。攻撃の為の位置に近い。

 しかし、両腕の位置は、やはりおかしかった。

 左は守りに使うには身体に近いし、右は攻撃に使うには身体に遠い。右手と左手の距離が、短い。

 空手には、前羽の構えというものがある。これは、両腕を前に構えることによって、鉄壁の防御を誇る構えだ。腕を前に出すことの防御力が、どれほどあるかというのを、端的に表す構えなのだが、今の坂下の構えは、それとも違う。

 確かに、ちゃんと半身の構えを取ってはあるが、腕の位置が、両腕とも中途半端なのだ。これでは、両腕とも、中途半端な動きしか出来ない。

 綾香相手なのだ、両方、などと悠長なことはせずに、守りなら守り、攻撃ならば攻撃に特化すべきこのときに、坂下の構えは、中途半端過ぎた。

 ただ、だからと言って、綾香の油断を誘える訳ではない。いつもと比べても不可思議な構えを取っているのだから、それにはそれの意味がある、と思って警戒することはあっても、まさかどっちつかずになっているだけ、とは思うまい。

 まあ、どんな意味があるかは、手を出してみれば分かること。

 少しそれを楽しみにしながらも、十分な勝機を持って、綾香は、坂下に向かって走り込んだ。

 

続く

 

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