作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(408)

 

「ひゅっ」

 坂下に対して走り込んだ綾香は、ギリギリの距離から、タイミング的なことを言えば不用意とも思えるハイキックを放つ。軽い感じで放ったそれは、ただしスピードだけは有り余るほどあった。

 前進の力を加算している以上、ガードすれば相手も自由に動く、ということは出来ないし、後ろに下がって避けられたとしても、そこから追撃される恐れはない。スピードのあるハイキックから、裏拳なり後ろ回し蹴りにつなげば、明らかに綾香の方が速い。

 綾香も、これで仕留めようなどとは思っていない。

 まず問題は、綾香もそれなりのダメージを受けてしまっているということだ。相打ちになってしまった投げの分すら完全に回復した訳ではないというのに、そこに強烈な一撃をお腹に食らってしまった。

 あれでも、とっさに後ろに飛んだのだ。でなければ、倒れているのは綾香の方だった。あれは、葵が一度だけ見せた崩拳にも似た一撃だったのだから、それを何とかダメージを後ろに飛んで避け、動けている綾香を褒めるべきだろう。

 だが、十分なダメージだった。綾香だって、本調子とは言いかねる。無理は出来るが、出来るだけ後にまわしたい。だから、坂下のダメージの累積も測る為に、まずは手を出して様子を見るつもりだった。手は抜いていない、ただの様子見と見れば、ここぞと坂下が攻めてくる可能性は否定できないどころか、かなり大きい。あくまで、倒せるだけの威力は込めねばならない。

 綾香のハイキックを、坂下は後ろに下がって避けた。腕で受け流して、綾香の隙を作るようなことすらしなかったし、すぐに前に攻めて来るというのもなかった。

 結果、綾香は空振りをすることになる。空振りというのは、案外スタミナを使うので、正直に言えば避けておきたいことなのだが、それぐらいの対価を払うのは仕方のないことだろう。

 あら、思ったよりも、好恵、限界かな?

 綾香は、以外な気持ちでハイキックを空ぶった状態から簡単に体勢を立て直した。

 降ってわいたチャンス、とまでは言わないが、さきほどのハイキックは、まともにやるよりはよほど坂下にとっては対処しやすかったはずだ。打撃を避け、または受け流して実質的な先手を取る、後の先を得意とする坂下には珍しいほどに、あっさりとそれを見逃した。

 うーん、私を誘っている、と思うには、ちょっとせっぱ詰まってると思うんだけど。

 綾香の頭は、こんなときにでも明瞭に動いていた。本気を出した綾香は、力押しを平気で行い、まったく理性的には見えないかもしれないが、いついかなるときでも冷静に頭を動かせるのは、強さの一つだ。

 感情を爆破させて一時的に人間の限界を超えることも可能なのだろうが、正直、それでは長続きしない。燃えるような感情と、凍り付くような理性を同時に併せ持つ綾香には、そんな隙も弱点もないのだが。

 坂下が手を出さなかったことを、間合いの奥に誘う行為、と見るのは簡単だ。いくらダメージは多いとは言え、チャンスに手を出さない坂下ではない、理性はそう告げる。しかし、綾香の感性で言えば、それは、「遅い」。そんな悠長なことをしていて、綾香に追いつける訳がないのだ。

 もし、坂下が本当に誘う為に手をださなかったとしたら、自分もなめられたものだ、と綾香は思った。

 綾香を倒すつもりならば、どんな方向でもいいから、がむしゃらに突っ走るしかない。そんな誘う程度の小手先の行為、こんなところで使っても、害悪でしかない。

 一生のうち、普通なら出会うこともないような逆境そのものである綾香に、それもだいぶ舞台が暖かくなって、綾香が本気を出している状態で、手を出すのを自粛するというのは、いかにもまずい。

 勢いというのは、大切なものだ。下手をすれば技術よりも大事だ。勢いに乗れば、弱小チームが強豪に金星を上げることもまま起こる。勝負という世界は、相手がいる以上、相手の勢いに負ける、ということがある。

 正確には、勢いは、相手を崩す。どんなに勢いに乗ろうと、強くなる部分などたかが知れている。ただ、その僅かな部分が、相手にプレッシャーを与え、相手を崩すからこそ、勢い、というものの本当の効果だ。勢いに負ける、言葉その通りなのだ。

 格闘技だって、がむしゃら、というのは意味がなくとも、出すべき部分で手を出さなければ、勢いを殺し、そして、相手を勢い付かせる。その後、僅かでも勢いに押されれば、簡単に覆せるものではない。それぐらい、坂下なら熟知しているはずだ。

 ただ一度後ろに下がっただけでも、綾香はそこまでのことを考えていた。いや、一度、などと簡単に言えるものではない。一撃で決まる世界だ、その一度こそが、勝敗を決しても、何もおかしくない。

 好恵も、ここまでか。

 そう思った瞬間だった、僅かに距離を取っていた坂下の身体が、綾香に向かって、滑るように動いた。

 へえっ!

 綾香は、心の中で感心していた。ここ、この状況は、坂下にとってまずい。それを覆す為には、坂下が自分から攻めるしかない。坂下はそれをちゃんと理解していたのだろう。

 でも、私相手に攻めて、大丈夫?

 坂下の戦略は後の先、もちろん、全部が全部取れる訳ではないだろうが、高確率でそれを行うだけの実力はある。

 しかし、先手で、綾香と対等に渡り合う力が、坂下にあるだろうか?

 後の先は、技術だ。強い者に弱い者が勝つ為に長い時間をかけて作り上げられたものだ。対して、単純に正面から先手を狙えば、これは強者の勝ちだ。いくら攻めなければならないとは言え、不利な状況に手を出さないと駄目なのは、いかにもまずい。

 綾香は、何も不安はなかった。先手取りで争えば、綾香の勝ちは揺らぎようのないものだ。

 だが、綾香は間違えない。先手の取り合いをすれば、確かに綾香の方が断然有利だ。しかし、そうやって先手を取ったところを、坂下は後の先で押して来る可能性があった。そこでせめぎ合った分、綾香に隙が出来るのを、坂下は狙っているのかもしれない。

 じゃあ、この先手、見極めさせてもらおうじゃない。

 綾香は、後に回った。押して来る坂下の方が、僅かだが先手を取るのに有利だったのも綾香にその選択を取らせる。

 間違いではないだろう。綾香は、高等技術のカウンターを得意としている。今まで、綾香の本気のカウンターをどうにか出来たのは、浩之の兄弟子、修治だけだ。その修治だって、投げるのがやっとで、完全に決めるまでは出来なかった。

 後の先を得意とする坂下に合わせるように、先手を取っていたのだが、まだ、そのカウンターを坂下には見せていない。坂下が成長したように、綾香だって成長しているのだ。攻める坂下には、不利な条件ばかりがそろう。

 坂下が、その不利を力任せにはねのけるように、ダメージがあるとは思えない力強さで、踏み込んでくる。綾香は、それを切れるような笑みで迎え受けた。

 まず、左のジャブ。予測通りだった。ウレタンナックルを外して、凶器となったそれを使わない理由はない。が、今の坂下が素拳であることなど、今の今まで綾香の意識には入らないほど、些細なことだった。

 綾香には、動きが十分に見えている。もう、次の右拳のコンビネーションを待つまでもなく、坂下の左に入り込んで、フックで坂下を切って落とす光景まで想像出来た。

 余裕だった。体捌きのスピードで言えば、綾香は坂下を遙かに凌駕しているのだ。今までついてきた坂下のがんばりは評価できるが、やはり絶対的なものは変わらない。

 綾香は、坂下の拳を避けると、そのまま左に入り込んだ。

 バシィッ!!

「っ?!」

 強い打撃ではない。しかし、無視できない衝撃を受けて、頭が後ろにはじかれる。頭が動けば、どうしても人間の身体はバランスを崩す。怪物である綾香だって例外ではない。攻撃出来る体勢ではなかった。

 予想が、完全に外れた。普通なら混乱して、硬直する場面、しかし、綾香は状況を、瞬時に理解して、距離を空けていた。

 ほとんど威力を受け流せなかった所為で、ズキズキとほほが痛む。それ以外は、自分が打撃を受けたのだという確証が、綾香には持てなかった。

 おおっ、とやっと我に返ったように、観客達から小さな歓声の声が上がる。綾香が、一方的に打撃を受けたことに驚いたのだろう。それとも、坂下のやったことに驚いたのか。

 避けた、と思ったはずの坂下の拳が、綾香のほほにヒットしたのだ。

 何を、してきた?

 不可思議な坂下の打撃。それは、初めて、綾香の想像を、超えた。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む