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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(410)

 

 狙われた、と思う時間も綾香には残されていなかった。

 アリゲーターの拳を、ナックル越しに破壊するほどの坂下の素拳だ。そんなやわな握りは綾香もしていないが、真正面からぶつかれば、拳を砕かれるのは綾香の方であろう。いかに綾香が身体的に恵まれていようと、そもそもそんなことを前提に綾香は鍛えていない。

 反対に、坂下は、まさに拳で人を破壊することを目標に鍛えているようなものだ。比べるべくもない。

 このまま綾香が腕を突き出せば、綾香の拳は砕かれる。しかし、それが分かっていても、綾香の身体は止まれない。坂下も、当然止まらない。当たれば、一方的に勝てることを知っているのだ。

「くっ?!」

 カッ、と拳がぶつかり合う音と共に、綾香の拳が、押し負けた。

 パシィッ!!

 それは、綾香の拳の割れる音ではなかった。綾香の肘を、坂下が手で受けた音だった。

 坂下の手に力が入るよりも速く、綾香は後ろに飛んでいた。それでも間に合わないと判断して、上半身のみ後ろにそらす。その逃げる顔面ぎりぎりを、坂下のフックがすり抜けていった。

 バク転をして、綾香は素早く立ち上がると、余裕のない動きで構えを取った。両腕を前に出した、空手で言えば前羽の構えだ。それは、綾香に攻撃の余裕がなかったことを示していた。しかし、それほどに、バク転からの回復は危険だと判断したのだ。

 坂下がそこを狙って来なかったのは、坂下らしくもない、とも言えるかもしれないが、綾香は、そのことが、何より怖かった。攻めて来れば、いつも通りの坂下であり、そこを崩すことは出来る、と踏んでいたのに、それすら坂下はして来なかったのだ。

 先ほどの攻防も、綾香にとってはかなり危なかった。

 綾香のストレートに、坂下は自分の拳を合わせようとしたのだ。拳と拳がぶつかれば、綾香が一方的に負ける。綾香でも、拳を砕かれても平然と戦える自信はなかったし、攻めを一つ封じられるのは、さすがに痛すぎる。

 綾香は、その動きに、何とか対応したのだ。腕から力を抜いて、拳が負けると見せて、そのままそこを支点に、肘を坂下の身体にたたき込もうとしたのだ。坂下には一方的に負けるとしても、それが可能なほどの身体的有利なものを綾香は持っているからこそ出来る作戦だった。下手な人間がやれば、そのまま拳を砕かれて終わりだ。

 だが、その技自体は成功したものの、それも簡単に手で受けられてしまう。腕をかいくぐったはずなのに、だ。

 その点で言えば、そもそも、綾香のストレートに拳を合わせる自体がおかしい。綾香の拳速は冗談ではないほど速いのだ。軌道などそう簡単に読まれる訳はないし、読んだとしても、拳を間に合わせるのはもっと難しい。

 それが、あっさりと合わせられる。かいくぐったと思った腕が、いつの間にか受けに使われている。

 腕の始動と、復帰が異常に速い。そして、左右の動きの間に、時間差が非常に少ない。

 スピード勝負であれば、綾香ははっきり言ってずるをしているようなものだ。綾香の速度に完全について来られた人間は、今のところいないと言ってもいい。セバスチャンや修治だって、それ以外のもので勝負して来るぐらいなのだ。

 だが、綾香は、そのズルを、初めて自分が受けたように感じていた。それほどに、綾香と坂下のスピードに、違いがある。

 いや、それをスピードと言っていいのか?

 拳を合わされそうになったことで、綾香は、坂下が一体何をして、綾香の速さを追い越したのか、理解した。

 種明かしは、理論的に言えば簡単だった。坂下の、その中途半端な位置に構えられた腕の所為だ。

 身体から遠いところにある腕は、相手に届くのも早い。力を入れて、最速になるまでの助走距離が足りないほどに近い。だから、威力も上がらない。相手に近いので、防御には有利だが、しかし、攻撃には向いていない。

 身体が近いところにある腕は、相手に届くまでには速くなっているが、助走も含めた距離を考えれば、早くはない。しかし、助走を持ってスピードがあがれば、その分威力も上がるので、攻撃には向いている。ただし防御にはこれほどはないほど向いていない。守るにも距離がなるのでは、守りきれるものではない。

 坂下の腕は、両腕、前に突き出された形にはなっているが、攻撃の為の余裕も腕には残っている。しかも、両腕の間がほとんど空いていない。非常に中途半端な構えだ。だが、そこから出される攻撃は、前にある腕よりも速く、後ろにある腕より早い。

 そして、何よりも効果を発揮しているのが、その後ろの腕だ。前に出た左腕に寄り添うように出された右腕は、左腕が動いてから、まったく時間を置かずに動く。それは、綾香が左腕を回避してから攻撃を放つよりも早く、ただ前に出ているよりも速い。

 中途半端であろうとも、前に出た腕は、さらに戻りも当然早く、その分守りにまわるスピードも上がる。綾香が受けからの連続技につなげても、それに追いつけるほどに。

 バカらしい、と、普段の綾香なら一笑にふしただろう。そして、それを証明するかのように、あっさりとカウンターなりラビットパンチなりで切って落としていただろう。それほどに、バカげた作戦だった。

 両方に対処できるように、という言葉に惑わされるような世界ではない。物事はどちらかにしか傾かない。変幻自在は十分可能でも、万能というのは、実現し辛い。

 中途半端な位置に腕があるようでは、攻撃にも防御にも、中途半端にしか使えないということだ。それ上回る攻撃や、それを無意味にする回避など、掃いて捨てるほどある。少なくとも、一体一の打撃戦ならば、片腕を守りに、片腕を攻撃に特化させた方が効率も勝率も良いのだ。伊達や酔狂で、皆同じような構えをしている訳ではない。

 だいたい、例えそれで何とか攻撃と防御を両立出来たとしよう、だが、それをうまく使いこなすというのは、それこそ至難。強さ弱さの問題以前だ。

 中途半端なことを除いたとしても、使いこなすのは無理。人は、二つのことを同時に出来るようには出来ていないのだ。

 この構えの最大の強みは、左が攻撃にも防御にも動き、さらに右も攻撃にも防御にも動く、つまり、臨機応変の動きによって、一方的に相手に競り勝つことだ。左右が自在に受けも突きもしてくるのだから、綾香が感じたように、ズルをしているのでは、というほどのアドバンテージを生み出す。

 しかし、その為には、両腕の動きを、臨機応変に、両腕とも同時に制御せねばならないのだ。これは、思う以上に難しい。不可能に近い。左右で非対称にジャンケンをするなどという遊びのレベルではなく、左手で字を書きながら右手でお手玉をするのですらまだ易しいかもしれない。

 もともと左右別で動くことを前提とした二刀流ですら、片方を守りに特化させ、片方を攻撃に特化させるという、いわば格闘技の普通の半身の構えと同じ成果を出しているだけのことも多い、いや、ほとんどがそうであると言える。

 坂下は、しかし、その不可能を、綾香相手に行った。いや、行ったからこそ、綾香の相手になっている、とも言えるかもしれない。

 確かに、威力は落ちているだろう。半端な位置からでは、坂下ですら全力の威力を出すことは出来ない。しかし、それが何だというのだろう。素拳により底上げされた威力は、その堅さを使って拳同士でぶつかれば一方的に勝てるし、必殺とならずとも、打撃は相手にちゃんとダメージを当てていく。

 必殺を捨て、適中を選ぶ。

 英断だ。綾香相手に、一撃必殺を目指すことは不可能。そう、今の綾香と坂下の実力差ならば、不可能なのだ。だから、綾香は怖くもない。坂下は強いが、綾香を倒せるほどには強くない。だが、その前提が、崩れたら。

 当てればいい、と。一撃では倒せずとも、何発も当てればいい、と。それを倒れるまで続ければいいだけだと。

 出来る、確かに、可能になった。不可能から可能への変化だ、これは大きい。坂下の技は、それを可能にした。

 それを可能にしたのは、才能ではない、技術だ。

 才能によって生まれた怪物とは、まったく間逆の存在。坂下は、今そこにたどり着いていた。

 人はそれを、達人、と呼ぶ。弱きが強きに勝ち、柔を以て剛を克することが武術の本質であるというのならば、坂下のそれは、まさに武術の本質。

 武術の本質とは間逆の存在である怪物は、その本質を一笑にふせずに、苦々しく、笑う。

 まさか、だ。

 まさか、坂下が、ここまで来るとは、思っていなかった。

 そして、綾香が怪物であるからこそ、感じるのだ。自分とは異なる存在に、ただ違うのならば看過も出来ようが、それが、自分に届くまでになってしまったことへの。

 恐怖、を。

 

続く

 

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