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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(412)

 

 綾香が、顔を歪める。珍しいなどというものではない。どんな猛者相手であろうと、いや、だからこそ、綾香は相手が強ければ強いほど、その実力を余すことなく見せつける。届いた、と思った瞬間に、一気にスピードを上げて離されていく絶望感を、綾香はまるで楽しむように相手に与えてきたのだ。

 それが、出来ない。今、二人の強さは拮抗していた。綾香も坂下も、おそらくは同じことを感じている。

 しかし、だからこそ、綾香の方が不利だ。今まで、自分よりも強い相手と当然戦って来なかった綾香と、その綾香がいることで、自分よりも強い相手といつも戦って来た坂下とでは、経験が圧倒的に違う。

 綾香が不利になることは、今までなかったことではないだろう。マスカレッドも、綾香を十分に不利になるまで追い込んでいた。しかし、綾香はそこから力技で逆転してみせたのだ。それが、今までは出来た。

 では、今回は?

 一発を捨て、高度な攻撃と高度な防御を手にした坂下に、死角はない。

 いや、足りないものだらけではあるはずなのだ。構えにも戦い方にも、穴が在りすぎるとさえ言ってもいいかもしれない。

 ただ、それでも負けない。どうやっても、綾香と並ぶか、上に行く。

 綾香だって、本気を出している。スピードはほとんど目にもとまらぬものであるし、そのスピードで身体全体が動くのだ。手先だけを器用に、しかしせせこましく動かす坂下とは、迫力が違う。

 綾香の動きは、人間の限界すら超えていると言って過言ではない。しかし、今回は、それすら無駄な動きでしかない。坂下の手の方が、綾香に早く到達するのだ。いかに速かろうと、距離の近さには勝てない。

 坂下の動きは、まさに武の達人の動き。その歳で、その技を成すことがどれほど困難なのかは、言うまでもないことで。それを体現した坂下は、どんな経緯や今までの結果があろうとも、確実に強者だった。

 だが、坂下の相手は、来栖川綾香。僅か高校一年で異種格闘大会を、圧倒的な強さで勝ち抜いた怪物。

 綾香は、臆しても何か不思議ではない場面で、前に出る。無謀ではない、冷静に判断して、攻めに転じているのだ。手を出さなければじり貧であることも、もちろん要因の一つではあるが、綾香には、それでも柔軟に、そして最善を持って対抗出来る自信があった。

 相手の意識の隙を突く非常に読みづらい一瞬をついて、綾香は坂下との距離をつめようとして。

 パシュッ!

「くっ!?」

 その出鼻をくじかれた。

 ぎりぎりで、綾香の前に出されるはずだった脚は、宙に止まっていた。その綾香の足が踏み出されるべきだった位置を、膝から先がまるで別の生き物のように動いた坂下の猫足達からの変速のローキックが空ぶっていた。

 出足に併せてのローキック。基本と言えば基本だが、この高度な戦いの中でこそ、それは大きな効果を発揮出来る。当たれば、綾香の動きを封じれる、であれば、もう坂下の勝ちは揺るぎようのないものになるはずだった。そして避けられたとしても、綾香の出鼻を挫くだけではなく、坂下はその中途半端な位置にある腕だけでなく、脚の方も自由に動かせることを綾香に見せつけたのだ。

 これで、綾香の行動はもっと制限される。腕をどうにかすればいい、という簡単な命題から、坂下の動きを完全に封じなければならない、という困難な命題にぶち当たるのだ。しかし、全部を封じなければ、坂下の早さは、綾香の速さを超えて来る。

 まあ、この際、そんなプレッシャーの話など、関係ないかもしれない。

 何せ、坂下は、そのローキックだけを放って待ってやる理由などなかったのだ。身体の動きにブレーキをかけて動きの止まった綾香を狙わない理由も必然も、坂下は持ち合わせていなかった。

 ローを放ったと感じた瞬間から、一瞬も間を置かずに、坂下の左拳が綾香の顔に向かって伸びる。最速のスピードにはほど遠いが、それでもその近さと早さは、神速の攻撃と同等の意味を持つ。

 それでも、綾香ならば避けることが出来ただろう。片脚だろうが何だろうが、綾香の身体は常識を置いてけぼりにするほどに動く。だが、その後に続く攻撃にまで対処できるかどうかは、難しいところだった。非常識を超える攻撃は、言葉通り非常識を超えるのだ。

 だが、綾香の動きは、その予想を超えた。いや、外した、と言っていい。

 ガッ!

 坂下の拳を、綾香は頭に受けた。が、受けた綾香の方の脚は、止まらない。

 動いて体勢を整えた綾香に、さらに半瞬も置かずに繰り出された坂下の右拳を、綾香は残った両腕で受け流す。

 本命であった、綾香の鳩尾を狙った拳が、受け流されて力を無くす。とは言え、綾香の方にも、反撃する余裕はない。

 お互い、申し合わせたかのように二人は地面をすべるようにして距離を取っていた。混戦になれば、なるほど攻撃は当たり易くなるだろうが、お互いに隙を作ることになる。それは、両方にとって本意ではなかったのだろう。

 坂下の表情は、悟ったように静かで、それとは反対に、綾香の顔は歪んだままだった。それでも坂下よりも絵になるというのだから、美人は得である。もちろん、坂下も決して顔の悪い方ではないのだが、綾香が飛び抜けすぎているのだ。

 顔のことはともかく、綾香が顔を歪めているのは、先ほどとはいささか、理由が異なる。

 ちっ、やっぱめちゃめちゃ堅いでやんの。何よ、前頭葉に勝つ拳って。

 ずきずきと痛むおでこが綾香の顔を歪めているのだ。動きに支障はないとは言え、痛くない訳ではないのだ。

 綾香は、わざと坂下の攻撃を頭に、一番堅い前頭葉で受けたのだ。

 そのまま避けることは可能だった。しかし、次の攻撃には対処出来ないと判断した綾香は、一番威力が弱いであろう左拳の牽制に近いパンチを受けたのだ。一度だけ攻撃を避けない、その間に、次に来るであろう本命の攻撃を受ける体勢を整えたのだ。

 もちろん、こんなことを続ければじり貧になるのは理解している。しかし、それ以上に、分かってくることもあるのだ。

 あの段階でローキックを放って来るのには驚いたが、しかし避けれないほどではなかった。当然だろう、坂下はそれで決めようなどと思っていない。早さを得るかわりに、威力はどうしても犠牲にされているのだ。それでも、蓄積すれば勝敗を分けるだろうし、坂下は自分が攻撃を受けない、全ての攻撃を受けきれるという自信があるからこそ取れる戦略だ。

 しかし、綾香が機転を利かせて致命傷を避けただけの攻防ではなかった。その間にも、坂下の出来ること、出来ないことを、ちゃんと綾香は見ていた。

 脚も使えるが、致命傷には遠いこと、防御はともかく、攻撃にはやや融通が利かないこと。堅いところで受ける限り、弱い威力の打撃であれば、耐えられること。

 やはり、穴だらけなのだ。当然だろう、坂下の年齢で、達人の域に完全に達するのには、さすがに無理がある。

 だったら、崩せばいいだけだ。それを崩せば、勝敗は自ずと決する。解析が済み、綾香の実力を持ってすれば、穴を突くことは不可能ではないのだ。

 ただ、問題があるとすれば……

 認めねばなるまい、悠長にやっている時間はない、と。

 坂下の攻撃は、確実に綾香にダメージを当ててくる。このままでは、そう遠くない未来、綾香は反撃の力すら削られるだろう。

 私が削りきられるのが先か、好恵が崩されるのが先か……

 勝負っ!!

 

続く

 

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