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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(416)

 

 再度、構えを取って対峙する二人を見ながら、葵が誰に聞くでもないように、声にする。

「……今の、何だったんでしょうか?」

 綾香と坂下の攻防の中で、葵の目にも、一つだけ理解不可能なことがあったのだ。おそらくは、この中で一番二人に近いはずの葵ですら、横で見ていて理解出来ないもの、それこそが、綾香の技の正体だった。

 反対に言えば、それ以外の攻防は、理解出来ているのだ。左右がほぼ同時に出る蹴りぐらい、葵でも使えるのだ。綾香が使えない道理はない。葵が使えて、綾香が使えないのは、せいぜい崩拳ぐらいのものだろう。坂下が今使った肩でのガードすら、綾香なら使うことが出来るだろう。

 だからこそ、綾香でも真似出来ない坂下の攻防一体の両腕は凄いのであり、坂下にすら真似をさせない綾香の技は凄いのだ。

 綾香の技は、一言で言えるほど単純なものではない。それでも、一言で表すとすれば、坂下の攻防一体の両腕を封じたその技は、フェイント、と呼ばれるものだ。

 もちろん、ただのフェイントではない。だが、一般的にフェイント、と呼ばれるものの定義を超えているものでもなかった。

 相手が仕掛けてくる技が分かっているのなら、熟練者にとって受け流したりガードしたり、防御するのは簡単な話だ。一撃必殺ではなくとも、十分に勝敗の決する打撃が飛び交っても、なかなか決着が着かないのは、お互いに当てられないように防御するからだ。そして、それは簡単なことではなくとも、十分可能な領域の話になる。

 だから、フェイントが必要になる。相手が来ると思ったところで、相手に防御行動を取らせて、実際は攻撃しないことによって、その分のアドバンテージを取る。打撃に関して言えば、フェイントのうまさが勝敗を決すると言ってもいいほど、重要なものだ。

 ただ、だからこそ、フェイントはそう簡単に決まらない。勝敗を決するのだから、勝てないということは、フェイントも効いていない可能性が高いのは当然のことだ。

 そして、おそらくは、坂下にはほとんどフェイントが決まらない。その中間に構えられた両腕の防御力はかなりのものだが、あくまで、道理としての話。それを十分に活用出来る攻防の技術があればこそ、綾香を追いつめるほどの技になるのだ。が、その構えだからこそ、フェイントに強いのも否定出来ない。

 相手に近いということは、ギリギリまで動かなくてもいいということだ。最小の動きで相手を釣る必要のあるフェイントでは、当然動きが小さければ小さいほどいいのだが、それでは、まだ坂下は腕を動かす必要がない。それでなくとも坂下は、攻撃がフェイントであるかどうかを判断する目に優れているというのに、その構えの恩恵を受けることによって、ほとんどのフェイントを潰すことが出来る。

 ただ、それはフェイントに対して無敵、と言っている訳ではない。

 相手のフェイントを読み取れるのは確かだが、反対に、坂下が相手の技を見切る力に優れているのも確か。だからこそ、受け流す、という行為が坂下の得意技の中に入るのだ。相手の技を見切らずに、受け流すことなど出来ない。

 技を見切れるということは、相手の小さな予備動作を読み取る力に優れているということになる。しかし、予備動作はフェイントにも使われるものであり、矛盾した内容かもしれない。まあ、その矛盾を成立させることが、強者の条件とも言えるが。

 フェイントの効果は、どちらにしろ坂下に対しては低くなる。いや、それ以前の話で、正直に言えば、今の坂下ならば、予備動作なしの攻撃にすら受けが間に合う。高く練られた受けの技術と技への反射が、それを可能にさせる。

 もともと、予備動作の少ない綾香の攻撃に、片っ端から受け流せるのは、その所為でもある。つまり、それが0であろうと、坂下にはまったく問題にならないのだ。

「綾香さんの身体、宙に浮いてませんでした?」

「……俺にもそう見えた」

 葵にも浩之にも、そう見えた。人間である以上、ジャンプは出来ても、ずっと宙に浮く、という行為は無理のはず。しかし、先ほどの綾香の動きは、腰が宙に浮いたまま、蹴りが出たように見えたのだ。まるで、腰がその高さで宙に浮いて、そのまま平行移動したように見えた。

 その不可解な動きが、綾香の技であり、坂下にすら真似させない、技術と呼ばれる集大成だった。

 0で間に合わないというのならば。

 マイナスに、すれば良いのだ。

 重心の乗っている脚を、騙す。

 動き以前の部分でのフェイントだった。重心の乗っている方からの蹴りはない。経験則でそう感じる、その僅かな感覚分、坂下は、綾香の蹴りに対応が遅くなるのだ。それは紛れもなくフェイントの部類に入るが、誰でも出来るものでは、決してない。

 0の時間でも、坂下には届かない。だったら、マイナスまで坂下の反応を持っていけばいい。フェイントとは、元来そういうもので、それを坂下相手にするとなれば、その技はもう高等技術と呼ぶしかないだろう。

 重心のかかっている脚を騙す、と言うが、簡単なことではない。しかし、出来るのならば、相手はまるで、宙に浮いて攻撃して来ているようにすら見えるだろう。予測できない動きに、人間は非常に脆いのだ。

 そして、この技の恐ろしいところは、原理を理解されても、フェイントの意味を無くさないことだった。

 例え、坂下であろうとも、重心のかかった脚の方向を無視は出来ないだろう。いや、本人はそのつもりでも、どうしても反応してしまう。相手に経験があればあるほど、それは呪縛のように絡まる。しかし、下手に意識してしまえば、今度は正しい方向からの攻撃にすら満足に反応出来なくなる可能性がある。

 重心を騙すことが出来るとすれば、いつも重心を騙す必要などない。綾香には、重心がどちらに乗っているのか見せかける権利があるのだ。無視出来ない以上、もうその時点でそれはフェイントの意味をなしているのだ。

 綾香の、本当の意味でのとっておきの技だった。

 今まで、誰にも見せたことのない、つまり、自分で考え、自分で練習し、そして自分一人で完成させた、酷く無駄とも取れる、綾香自身の技だった。技、という歴史の集大成であるはずのものとは対極にもありそうな、しかし、確かに高い位置にある、技。

 それを、綾香は坂下相手に行使することになる、とは、綾香すら今の今まで思っていなかった。それこそ、今まで見てきた、綾香にとっての「勝ち辛い相手」、つまりは修治とか北条鬼一とかセバスチャンとか、そういう相手に対して使うものとばかり思っていた。

 今ここ、この場所で、この相手に対して使うことなど、あり得ないはずだったのだ。

 しかし、綾香は、使わざるを得なかった。このままでは、綾香の拳は坂下には届かない、と綾香はあっさりと判断したのだ。それはプライドとかそういうものとは関係ない、綾香の冷静な判断がそうさせた、それほど、坂下は綾香に本気を出させたのだ。

 綾香がちょっと本気を出せば、そのとたんに地に伏すような、そんな甘い相手ばかりと戦って来た、と、綾香本人も、少し反省しているのだ。強敵はそう簡単には落ちていないが、そんな余裕のある戦いが、綾香を甘くしていたことは、綾香自身、否定しない。

 しかし、出してしまったからには。

 坂下を地面にはいつくばらせる以外の、落としどころを、綾香は思い付かなかった。とっておきの技、希望を言えば、最初に使う相手は浩之にしたい、と思うほどのとっておきの技を出させた坂下には、綾香も少なからず、腹を立てているのだから。

 まあ、それでも油断出来ない相手なんだけど、ね。

 ジリッ、と綾香は、坂下との距離を、少しだけ狭める。

 

続く

 

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