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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(418)

 

 転がるように後ろに逃げる綾香を、浩之は信じられない思いで見ていた。

 綾香は、間違いなく本気だ。たまにやってしまう、本気を出していない状態でのポカもしていない。本気を出したら、マスカレイドのどの選手でも圧倒的な強さで圧倒して来た。その綾香が、今、よく知った坂下に、逃げの一手しか打てなくなっていた。

 だが、そこは綾香だった。ほとんど動きなど取れないその動きの中で、坂下の出方をちゃんと見ていた。

 逃げる綾香に、坂下は追撃を行おうとしていた。

 綾香の重心が、後ろ足にかかる。追撃して来ようとする坂下にカウンターを入れるべく、驚くべきバランス感覚で体勢を立て直すと、蹴りを放とうとしていた。それを一瞬で見て取った坂下は、受けの為に出足が落ちる。素の攻撃であれば、今の坂下には怖くない。受け流して、後の先を取ればいいだけだった。

 が、坂下の予測に反して、綾香の身体はそのまま後ろに転がるように飛び退く。

 重心の偽物は、完全に重心が後ろ足にかかったように見せかけていた。そうやって、一瞬でも坂下の前進を妨げる。第三者が見れば、かなりの確率で気付かないような、そんな差であろうとも、この二人の間では、大きな差になる。

 浩之には、近づくことも出来ない世界で戦う二人。しかし、そんな世界の中でも、差はあるのだ。

 稼いだ一瞬で体勢を立て直した綾香は、今度は素早くこちらから仕掛けていた。と言っても、相手は鉄壁の両腕の構えを持つ坂下だ。簡単には攻撃は決まらないだろう。

 パァンッ!!!!

 案の定、綾香のハイキックはあっさりと受けられる。だが、坂下の受けも、先ほどまでの華麗なほど洗練された動きではなかった。僅かではあるが、動きがぎこちない。それでは、綾香のハイキックを受け流した上で、さらに綾香のバランスを崩すことまでは出来ない。

 ハイキックを打っても、まったくバランスを崩さない綾香の足腰がどうかしているのもあるが、それだけではないのだろう。違和感は感じているものの、綾香の技の正体に気付けていない浩之には、綾香が何かをしたのだろうと予測をつけること以上のことは出来なかった。

 そう、綾香は今度は重心のフェイクをしていると見せかけて、そのままの体勢で攻撃したのだ。重心のフェイクに騙されている坂下には、普通の重心の動きでも、無意識のうちに身体が疑ってしまうのだ。坂下の技がどれほど凄かろうが、それが坂下の修練のなせる技である以上、無視することは出来ないのだ。

 しかし、それでも、それでもだ。

 スパンッ

「くっ!」

 坂下の拳が、綾香の顔面にヒットする。弱い一撃だ。だからこそ、綾香に届くほどの早さを手にした、速さを殺した拳は、当たる。

 どんなに綾香が攻め立てようとも、二撃目は、坂下の方が早い。そして、弱い一撃であるからこそ、綾香の回避や防御が間に合わないこともある。そして、当たれば、着実にダメージはあたっていく。

 ブンッと、綾香の両腕がぶれるほどのスピードで動く。

 もともと、驚くほど速い攻撃を使う綾香が、スピードのみを出す為に打ち込んだ連打だ。というか、離れて見ているのに、浩之の目にはその連打が一体何発だったのか分からなかった。

 綾香だって、スピードだけを狙えば不可視と言えるほどのスピードを出すことは出来る。それをしなかったのは、それでは坂下を倒すことが出来ないと知っていただから。しかし、今回は背に腹は代えられない状況だった。

 相手の顔面を狙って、出血や顔のはれによる視界を遮る為に行う、スナップの効いた連打。その為に、スピードは申し分なかった。

 それを、坂下はことごとく両腕で受け流した。

「なっ?!」

 綾香の驚愕と、観客の歓声はほぼ同時に発されたので、綾香の声は、坂下以外の誰にも聞こえなかった。

 出せる速度としては、正直綾香の最大速度だった。単体の技としては、もっと速い攻撃はあるが、技は単なる速度ではない。どんなに技に速度があろうとも、加速時にその軌道を読まれれば、とたんに回避しやすい技に早変わりしてしまう。そういう意味では、チェーンソーの異能の必殺技は、まさに速い技だった。いきなり速度が最大速度まで上がるのだ。それを受け流した坂下もどうかしているが。

 だが、あの技は例外としても、綾香の連打は速かった。受け難い、という点で言えば、まさに受け難いことこの上ない、ジャブの連打だ。距離さえ合えば、当たらない訳がない。

 プロのボクサー同士であっても、ジャブは受けること前提のものなのだ。それを、坂下は全て受けきった。一撃受けて、その間に攻撃を当てる、ということすらしなかった。

 それを、余裕の現れと取ることも出来ただろう。しかし、それよりも重要なことは、綾香の最大速度の攻撃よりも、坂下の受けの方が、早い、ということだった。

 もちろん勝負は、速さだけでも、早さだけでも、決まるものではない。だが、少なくとも、早さの差は、綾香の前に引きずり出されていた。

 完全に、自分の方が劣っている。才能に絶対の自信を置く綾香にとってみれば、許せるものではないはずだ。

 それでも、綾香の心は、まったく折れない。

 だが、むしろ、この場合は折れていた方が、よほど良かったのかもしれない。

 坂下は、綾香を軽く受け流しながら、笑いだしそうだった。

 軽く? もちろんそんな訳はない、一瞬一瞬が必死だ。少しでも間違えば、綾香の攻撃は容赦なく坂下を打ち倒すだろう。この構えは、あくまで腕を有効に使うからこそ効果を発揮するのだ。その判断には、いくらかは経験に基づく反射が入っており、だからこそ出来るのだが、それ以上に、その瞬間で判断している動きが多い。

 一瞬でも気を抜けば、判断しきれなくなるかもしれない。そうすれば終わりだ。綾香も、わかっているのかわかっていないのか、打撃の威力を殺さずに、当たれば終わる攻撃ばかり仕掛けてきた。フェイントは入れても、威力を犠牲にしようとは少しもしてこなかった。

 だが、坂下の受けを打破する為に、綾香は違った技に手を出した。それは、致命的な間違いだ。

 技、技、技。

 そう、綾香の弱点は、ただ一つ、技でしかない。

 威力を殺した攻撃を仕掛けて来たことなど、その結果でしかなかった。

 坂下の欲しかったもの、それは、あの重心のフェイク。あれだ。あれを仕掛けて来たときは、さすがに危なかったが、だが、それに何とか対処できた以上、坂下の作戦は、成った。

 綾香と、技の戦いに持って行く。

 綾香がその才能に、折れることのない自信を持っているように。事実、その才能は、絶対の自信を持つのを許すほどの力があるように。

 チェーンソーの技を、技で打ち破った坂下は。

 自分の技に、絶対の自信を持っていた。

 技のやりあいならば、負けない。

 そして、坂下は成功した。とうとう、綾香を、技と技とのやりあいに、引きずり込んだのだ。

 

続く

 

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