作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(420)

 

 綾香が距離をつめても、坂下の反応は変わらなかった。両腕を半端な位置に構えて、完全に受けの体勢だった。重心のフェイクがあるとは言え、真正面からは簡単に切り崩せない高い牙城だ。

 が、それを言うならば。

 いい加減……見飽きたってのよ!!

 ただ有利、ただ凄いというだけで、いつまでも綾香を押しとどめておけるものではない。

 綾香は、何の変哲もない掌打を放つ。今の坂下相手には、あまり有効な手段とは言い難い。クリーンヒットしない限り、掌打は有効な打撃ではないし、何より少しでもリーチが短くなるのは避けねばならない行為だった。

 だからこそ、何かあると坂下は考えるだろう。それでも、腕はまるで別の生き物のように反応している。相手の攻撃を受けて、そこからの追撃が早いのだから、例えそれがフェイントであろうと何であろうと、無理矢理受けてしまえばいいのだ。

 わざわざ、こんな何かありそうな動きに合わせる必要は、坂下にはない。しかし、それは坂下の性分でもあるだろうし、この両腕の弊害でもある。もともと余裕のない守りなのだ。どれが狙うべき攻撃でどれが狙う必要のない攻撃かを判断するのは、坂下にも難しい。

 来る攻撃を、フェイントも含めて全て受けてしまえばいい。そういう構えなのだ。

 綾香は、この長くも短い、せめぎ合いの中で、それに気付いていた。綾香ほどになれば、漫然と拳をかわしている訳ではないのだ。

 綾香の掌打も、坂下の受けも届く前に、その掌打は変化する。

 くるり、と二人の中間あたりで、手の平を坂下に見せたまま、回転した。

「?!」

 観客達には、何のことか分からなかっただろうが、それは、坂下から見れば、手品のようなものだった。

 綾香の掌打が回転し、一瞬だけ視界を遮ったかと思ったら、次の瞬間には綾香の姿が視界から消えていたのだ。

 人間の視界は、横には広いが上下には狭い。そして、結局、動く瞬間さえ見せなければ、人間というのは簡単に動くものを見失うのだ。綾香のそれは、その応用の高等技術だった。無理矢理相手の視界に死角を作成し、そこに潜り込む、はたから見ていても何が凄いのか分からない動きだ。

 いくら綾香でも、坂下相手には難しい技だった。だが、坂下の腕は、確かに防御には優れているが、前にある以上、それだけ坂下の視界を遮る。そのギリギリの先で、綾香は自分の身体を死角に潜り込ませたのだ。

 潜り込む死角は、上か下。綾香は、何も迷いもなく下に潜り込んでいた。当然の選択とも言える。上には、普通の人間ではいけないだろうが、綾香ならいけるし、それを坂下は分かっている。それに宙にあっては、綾香でも自由には動けない。必然的な選択だった。

 その理解出来ない死角作成は、坂下以外には分からない動きだったが、その死角へ入るスピードは、誰が見ても凄いと言うスピードで行われた。スピードもそうだが、何より、その高さが、低すぎる。

 本当に地面すれすれになるまで綾香は身体を落としていた。ここからの攻撃など、普通ならばあり得ないのだろうが、綾香にとってみれば、難解ではあっても、不可能ではなかった。

 坂下の身体が、一瞬だけ驚きと判断で動きを止めていたが、綾香が見る前で、すでに反応しようとしていた。上でなければ、下。見るまでもない話だ。判断と言っても、それはもう思考を必要としないのではと思うほどの反応だった。そして、それでも正しい選択を選ぶ。

 綾香の身体が、床の上を滑るように坂下に向かって繰り出される。

 下から上に繰り出される攻撃は、綾香は何度も繰り出して来たし、坂下は何度も受けて来た。綾香の得意技の一つとすら言っていい。綾香が主武器に置こうかと言うほど、普通ではありえない角度からの攻撃なのだ。

 だが、だからこそ、坂下には対応される。対処したことが少ないという目新しさがなくなれば、坂下の実力であれば、対応されるのも仕方ない。

 しかし、これは綾香の普通でもなかった。床を滑るような動きから繰り出される、床と同じ高さの蹴り。水面蹴りよりも、さらに低い位置。

 見せたどころか、綾香だって想定して練習などしていない蹴りだった。だが、綾香はどんな弊害があったとしても、間違いなく天才であったので、練習せずとも、ここ一番で繰り出すことが可能だった。

 坂下でも、受けることが出来ない。両腕の構えは、確かに上には強いし、攻撃の届く距離であれば先制が打てるが、ここまで地面に寄った場所をカバーしていないし、それをフォローするように繰り出されるはずであった脚も、やはりここまで低い位置相手に攻撃する方法を知らなかった。

 もう少し近づけば、それも可能だっただろう。上から拳を落とすなり踏みつけるなり、必殺になる技には事欠かない。だが、こうも離れた位置にあっては、それもかなわない話だった。

 だが、受けたとすれば、食らう箇所は、足首。片足を引いたぐらいでは間に合わないほど、綾香の身体は奥に入り込んでいた。どんな体勢であろうとも、綾香の攻撃が、足首に側面から入れば、その脚は使い物にならなくなると考えた方がいい。坂下がどれほど受けが凄かろうが、綾香相手に、片足のハンデは大きすぎる。

 次の攻防を理解しているだろうに、しかし、致命打を避ける為に、坂下は飛んでいた。

 そう、攻撃の方向が上か下しかないのとは違って、逃げる場所は上にしかない。

 宙に浮いた時間など一瞬だが、二人の間では、それは何をするにしても十分な時間だった。その間、坂下は身動きが、取れない。

 綾香にとっては、千載一遇のチャンス。受けはまだ健在だが、受けは腕のみで行うのではない。身体全体の動きがあって初めて、それは十分な効果を発揮するのだ。

 これほどの坂下には致命的で、綾香にとっては決定的な瞬間は、もうないかもしれない。しかし、それでも自信があるように、坂下は飛んでいたのだ。

 逃げる道がそこしかなかったのは事実だが、例え、致命的な瞬間であろうとも、受けきってみせる、そう考える坂下の自信が、綾香にも見えていた。

 だからこそ、この作戦は可能だったのだ。

 そう、下から上という慣れていない方向であろうとも、坂下にとっては慣れたと言ってもいい方向からの攻撃であり、何より、どんな方向であろうとも、どれほどの威力を秘めていようとも、真正面からの攻撃を、恐れる理由など坂下にはない。

 一発、多くても二発受ければ、それで終わりだった。もう一度同じ攻撃を受けることは、あり得ない。超低空の蹴りはともかく、死角に入り込む手をもう一度許すほど、坂下は甘くない。

 普通なら、床をすべるように攻撃して来た後に、攻撃を続ける、などということは不可能。だが、綾香なら出来る、坂下はそう考えていたし、事実、綾香の身体は、まるでその場に吸い込まれるように下まで潜り込むと、両腕を床についていた。

 坂下の見立ては間違いなかった。下からの突き上げの蹴り。腕で勢いをつけたとは思えないほどのスピードを生み出す蹴りだったが、あいにく、坂下相手には、すでに使い古された技だった。

 それが、繰り出されれば、坂下は、宙にあろうとも、それを受けきっていただろう。

 だが、そうは、ならなかった。

 坂下が、どれほどの技を持っていようとも、どれほどの神技を披露しようとも。

 来てもいない攻撃を受けることは、不可能だ。

 綾香は、坂下を、蹴り上げなかったのだ。

 

続く

 

前のページに戻る