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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(422)

 

 綾香だって、何も全てを操れる訳ではない。それどころか、綾香にとってみれば、この世の中はままならないことばかりだ。綾香の思い通りになるのならば、もっともっと、綾香は貪欲に物事を欲していただろう。

 それでも、綾香が人よりも、欲求を現実にさせる力が強いのは確か。この試合場にいる、観客も含めた人間の中で、一番なのは間違いないだろう。

 その綾香を持ってしても、おそらく、これ以上のチャンスを作ることは不可能。そう断言できるほどの、一度しかないチャンスだった。

 坂下の体が、背中から床の上に落ちた。倒れた打撃格闘家ほど役にたたないものはない。つまり、坂下にとって、それは避けることが出来なかった結果に選んだものとは言え、死地だった。

 ほんの一ヶ月前であれば、綾香ならば、余裕とまではいかないまでも、意識して持っていくことが出来ただろう。だが、今の坂下相手では、ここまで持っていけたこと自体が奇跡と言うべきものだった。

 この機会を、もちろん、綾香は逃しはしないし、坂下だって、何の抵抗もせずにやられる気は毛頭なかった。

 背中から倒れた坂下と、不自然な打撃を放って空振りした綾香、どちらも自由に動ける体勢ではないが、それでも、さすがに腰が浮いている分、綾香の方が早い。

 躊躇なく油断なく、綾香は飛び跳ねるように動きながら、地の上にある坂下の身体に覆いかぶさるようにパンチを放っていた。

「くっ!?」

 さすがの坂下も、冷静な顔を崩して、なりふり構わずに、覆いかぶさって来る綾香を下から蹴り上げた。片手をついただけとは思えないほどに、鋭い蹴りが、カウンター気味に綾香を襲う。

 シュバッ!!!!

 倒れた体勢から放たれたとは思えない前蹴りが、綾香のお腹を貫通した、ようにすら見えた。

 綾香は、もう坂下の実力を過小評価などしない。過大評価したぐらいで丁度いい、とすら思っていた。倒れた状況からでも、坂下ならば十分に強力な蹴りが放てるのだ。

 本当に貫通するかどうかは別としても、倒れた位置からの坂下の前蹴り、というかつま先での蹴りならば、腹筋を突きぬけ致命傷を与えることも出来ただろう。

 その鋭い蹴りを、綾香はぎりぎりでよけると、脇でその脚をつかんだ。

 片脚をつかんでしまえば、しかもこんな不十分な体勢ならば、勝負は決まったようなものだった。片脚では立つこともかなわないし、それでも立とうとしたとしても、掴んだ脚を引いたり押したりしてバランスを崩させるのは、綾香にしてみれば難しい話ではない。これで、綾香の片腕も封じられるが、対価としては十分過ぎるほどだ。

 体勢的に、綾香も脚を使えないが、坂下だって両脚と片腕を使うことが出来ない。持たれていない方の脚で蹴る? 体勢的に、不可能だし、両脚が宙に浮いた相手の身体の動きを殺すことぐらい、綾香にとってみれば造作もないことだ。

 であれば、片腕と片腕とで、至近距離の打ち合いだ。

 にいっ、と綾香は口をゆがめた。綺麗な顔が台無し、と言っていいほどに凶悪そうなその笑みを浮かべたそのときには、すでに手は動いていた。

 ドガガガガガガガガガガッ!!

 人の手で打たれる打撃とは思えない音で、綾香の片腕での連打が放たれて、それを覆いかぶさられた状態で、坂下が片腕で受ける。

 片腕であろうとなかろうと、坂下の受けは有効なはずであった。しかし、この打撃の打ち合い、いや、綾香の一方的な打撃を、坂下は受けると言っても、ガードに近い形になっていた。鮮やかに受け流す、とは到底言えない。それは、音でも分かる。明らかに、力が流されていない。

 坂下の受けの恐ろしさは、綾香はもう十分に堪能していた。だったら、受けられないような攻撃をすればいいだけだ。

 真正面でやれば、それでも坂下の受けの技術で受け流されてしまうだろうが、このどちらにも不利な、十分な体勢とは言えない状況であれば、坂下の受けは効力を弱める。言ったように、受けは身体全体で行うのだ。でなければ、一撃で人を昏倒させるような打撃の威力を、全て殺すなど出来ない。

 綾香は、受け流し難い打撃を放っているのだ。見た目には、力任せに殴っているように見えるだろう。事実、威力は単なる力任せだ。しかし、体勢が不完全であるからこそ、下手に身体をうまく使うよりも、威力の高い打撃が放てる。

 そして、理にかなっていない動きであるからこそ、坂下にはその力の流れが理解され難い。流れを読むからこその受けであるのに、そこにランダム性の高い動きを入れられると、普通ならばともかく、この体勢では対処しきれない。

 さらに言えば、綾香は坂下を倒すのではなく、坂下の腕を狙って打撃を放っていた。坂下も、綾香を一撃で倒すことをあきらめて両腕の構えを使って来たが、綾香のこれもそれに似ている。

 この体勢であっても、坂下の受けは健在だ。それを超えない限り、坂下を倒すのは無理。ならば、その腕を壊してしまえばいいのだ。

 拳だけではない、腕の硬さだって、坂下の方が硬いだろう。しかし、綾香の拳と、坂下の腕であれば、綾香が勝つ。

 だから、綾香は先手に拘った。後の先を取るにも、追撃の手がない。であれば、後は受けに使った腕さえ攻撃に回る、交差法さえ封じてしまえば、後は坂下は防戦一方になる。

 どちらも体勢不十分と言っても、比べれば綾香の方が有利なのだ。さらに、体勢が不利であるのならば、技によらずもともとの身体能力頼みに、綾香は技を捨てることが出来る。坂下でも、こんな体勢からの練習は、やってないだろうし、もしもやっていたとしても、そう長い時間は避けなかっただろう。

 押し切ってしまえば、綾香の勝ち。

 息もつかぬ連打を繰り出し、言葉通り坂下を削り切ろうとしている綾香だったが、それでも、まだ油断はしていなかった。勝った、とも思っていなかった。

 こんな絶望的な状況でも。

 ヒュンッと、この体勢になって初めて、綾香のパンチが空を切った。

 坂下は、跳ね除けることだけを考えている、と綾香は信じていた。

 半分身体を起こしていた坂下の身体が、もう一度床に落ちる。背中を床につければ、それで終わりだ。押さえ込んでさえしまえば、下からの打撃は多少は来るだろうが、綾香の組み技の方が何倍も上手だ。

 今度こそ、綾香が上に覆いかぶさる、そんな隙など与えずに、坂下は、綾香の身体を下から蹴り上げた。その、脇につかまれた脚で。

 

続く

 

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