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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(423)

 

 再度倒れた坂下に、綾香が覆い被さったのを見て、終わった、と誰しもが思った。

 エクストリームでは打撃専門にも見える戦いをしていたが、マスカレイドの観客達も、もう綾香が打撃専門なだけであると信じる人間はいなかった。バリスタの巨体は投げられたし、マスカレッドにいたっては組み技で打破されたと言っても良かった。

 豊かな才能の上に、さらに努力まで行って来た綾香の組み技は、十二分に危険であった。その綾香に、打撃格闘家の坂下が上を取られて、無事で済む訳がない。

 下から打撃で多少抵抗したところで、上に乗られれば、いつかは押し切られる。そして、このチャンスを綾香が逃す訳がない、と誰しもが思った。体勢は綾香に有利な上、ここからの位置取りも、組み技がうまい方が有利なのだ。

 だが、坂下は、まったくあきらめてなどいなかった。

 綾香の身体が、ガクンッ、と一瞬後ろに飛びそうになった。

 坂下が、持たれている方の脚で、綾香の身体を蹴り上げたのだ。蹴る、というよりは、振り回す、と言った方がいいだろうか。それでも、普通なら身体が羽飛ぶような勢いで、綾香の身体が揺れた。

 持たれた状態、そして倒れた状態であっても、坂下の蹴りは、やはり坂下の蹴りだった。衝撃は、バカにならない。

 しかし、その衝撃自体は、綾香には十分耐えれるほどのものであった。いくら激しくとも、倒れた状態で脚を振り回した程度で、綾香の細腕からは想像もつかない怪力で、腕を放す訳がない。

 一瞬でも離れてしまえば、坂下ならば体勢を立て直すことも可能であっただろう。しかし、綾香はそれを許すつもりはなかった。なかったからこそ、不用意、と言うにはあまりな話だが、坂下の脚を、強く持ちすぎていた。

 坂下が背中をついて繰り出した脚の力は、一度綾香に注がれ、一瞬後に、坂下に戻って来た。いや、それだけではない。坂下が倒れたのは、勢いをつける為だったのだ。バネのような腰は、背中から地面についても、ある程度、反発力を生んでくれる。

 坂下の身体が、地面から浮く。

「!!!!」

 しまった、と綾香が思ったときには、すでに時遅かった。

 綾香を振り回そうなどと、坂下は思っていなかった。それが出来るのならば、それもありだったのかもしれない。しかし、綾香とこの体勢で力比べをするつもりは坂下にはなかったし、もっと良い手があったのだ。

 脚に振り回されそうになった綾香の身体は、反射的に動きを止める。固定するのが、一番力を発揮し易いからだし、綾香に固定を選ばせる程度には、坂下の脚の力は強かった。

 その固定した綾香の身体は、坂下の足場となる。脚に込めた力よりも、よほど安定した力を足場として、坂下は身体を持ち上げることに成功していた。

 綾香が身体を固定していたのは、僅かな時間だ。それを足場にすることは、決して易い道のりではない。だが、坂下の決断を揺らがせるには、役不足であるのも確か。危険を避けることが出来ないのならば、積極的に打破する方を選ぶのは、むしろ坂下にとっては当然の選択だった。

 そして、これはあくまで打破を目的とした方法だった。立ち上がれる、などという副次的なものは、実際のところどうでもいい。

 寝ころんでいようが覆い被さられていようが、要は相手を倒してしまえばいいのだ。坂下は、何がなくとも、綾香を打破する為の選択肢を選んでいた。

 固定した綾香の攻撃が止まった瞬間を狙って、坂下は立ち上がるのではなく、持たれた脚に身体を引きつけるようにしながら、拳を突き出していた。

 もともと、立ち上がることなどまったく念頭に置かずに、攻撃出来る隙ばかり狙っていた坂下には、躊躇というものがまったくなかった。最初から狙っていた坂下と、それを予測出来なかった綾香の、そのアドバンテージの差。脚を持つことによって、自由は奪われるが、攻撃にはまたとないチャンスを手にした坂下。

 だが、それだけの前提を持ってしても、まだ綾香を押し切るには、足りない。

 坂下の渾身の右拳は、下がる綾香の顔面を捉えることが出来なかった。

 綾香がしまった、と思ったときには、すでに時は遅かったのだ。このまま坂下を下に押さえつけておくことは不可能になった。一発受けても耐えるという手もあったが、こここの場面で、坂下が必殺の拳を弱めるとはまったく思えなかった。

 足りなかった時間は、坂下をこのまま組み技で仕留める、という魅力的な状況を、何の躊躇もなく捨てることでまかなった。このままならば、綾香の勝ちは揺るがない、それを未練なく捨てることによって、不利を、有利に換える。

 攻防の優劣はコインのようなもの、いつだって表裏一体だ。

 有利を捨てるという不利を、積極的に捨てることによって、有利へと転化する。体勢不十分な状況で渾身の右拳を放った坂下は、反対にチャンスが反転して、ピンチへと変わる。/P>

 一瞬早く脚放すことに成功していれば、坂下はただ床の上に倒れるだけで、その後逃げられるかどうかは半々になっていた。しかし、その時を逸しても、さらに躊躇なく脚を放した綾香に巡って来たのは、チャンスなのだ。

 坂下の攻撃を避ける為だけに、後ろに一歩下がる。と同時に、その後退を持って、バネ仕掛けのような身体に、一瞬で力をためる。

 多くの時間を要しはしないし、もとより、このチャンスも、本当に一瞬ほどしかないものだった。だから、これで対応されれば、自分がまたピンチになることを分かりながらも、綾香は、躊躇しなかった。

 強気な選択を、その才能と才能に対する自信が、選ばせたのだ。

 ゴウッ、と綾香の大して大きくもない身体が、何か巨大なものが速度を上げたかのような音を立てる。

 空気の壁が、申し訳程度に抵抗したような気もしたが、綾香はそれに神経を傾けるようなことはなかった。重要なのは、一瞬で、トップスピードにまで持っていけるかどうかで、持っていければ、色々な抵抗など、問題ではない。

 渾身の右拳が空を切ったことによって、坂下に生まれた隙。その僅かな隙に、綾香は、自分の身体をねじ込んでいた。

 神速、とまで呼ばれた、綾香のパンチ。坂下は、そのことごとくを受けてみせたが、さて、この状況で、それがかなうのか。

 十分に近づいて繰り出された左パンチを、坂下は左で受け流す。しかし、力を存分に分散させるには、坂下の体勢が悪かったし、綾香は、そんな余裕を与えはしなかった。

 左とほぼ同時に、綾香は最小のモーションで、それを放っていた。

 右……ストレート!!

 遅いどころの話ではない。チェーンソーの異能の必殺技と同等か、少なくとも素人どころか浩之にすらその差が分からないほどの速度を持って、綾香の右ストレートは放たれていた。

 万全であれば、あの異能の必殺技を真っ正面から受けた坂下だから、受けることも出来ただろう。

 しかし、攻撃に使った右拳はまだ受けに使えず、左も左のパンチを受け流す為に使われていた坂下は、まったくの無防備で。

 ヒュバッ!!

 坂下に受けを取らせないまま、綾香の拳は、坂下の頭の後ろまで、突き抜けた。

 

続く

 

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