坂下は、全霊を持って、綾香の頭を打ち抜いた。
打ち抜かれた綾香の身体は、のぞける、という行為すら許してもらえず、その場で腰を中心に240度回転し、ぺたっ、と打撃の威力から考えると、かわいい音を立てて、床の上に落ちた。
音は、それ以上なかった。
観客も、歓声を忘れて、凍ったように動かない二人を、ただただ見ているだけだった。
じんっ、と坂下の腕に、綾香の頭を打ち抜いたその感触が伝わってくる。痛みではない。いや、坂下にしてみれば、それは痛みのようなものだったのかもしれない。
それは、人を破壊した感触だった。
綾香は、ぴくりとも動かない。動けるはずがない。坂下の正拳突きの威力は、綾香という天才の打たれ強さを持ってしても、耐えきれない。意識があるないの問題ではない。下手をすれば、重大な障害が残るかもしれない。坂下が感じた感触は、それほどのものだった。
予測はついていたことだ。二人が戦えば、お互い、五体満足で終わることすら危うい。綾香も言っていたし、それどころか、坂下の身の心配すらしていたではないか。今回は、たまたま、坂下の拳が、綾香に当たっただけだ。こんな結果になるのも、綾香が心配したのと同じように、坂下も、心配していたのだ。
こんなことになったのは、たまたま。
だが、これこそが、倒れてぴくりとも動かない綾香を前にしても、坂下が重要だと思うことは。
「私の……」
まだ、自分でも信じられない。綾香の強さは、嫌というほど見て来た。一生勝てない、と絶望することも、両手で数え切れないほどして来た。
だが、今この場に立っているのは、怪物の綾香ではなく、人の身の坂下だった。
「勝ちだっ!!!!」
倒れた綾香を上から睨み付けながら、坂下は叫んだ。まるでやりきれないものをはき出すように、腹の底から、声を張り上げる。
勝って、しまった。
言葉通りだった。倒れているのは綾香で、立っているのは坂下。倒れた方の身体はぴくりとも動かず、立っている方には、まだ叫ぶだけの力が残っている。これを勝ったと言わず、何を言うだろう。
それでも坂下は、残心どころか、まったく構えを解かなかった。解けなかった。こんなことがあるのか、と自分ですらまだ信じ切れないのもある。しかし、何より、坂下が対峙していたのは、それほどの恐怖であったし、強者であった。人の皮をかぶった怪物相手の正体を知っている以上、坂下の胆力を持ってしても、倒れて、もう勝敗はついていると分かっていても恐れずにはおれなかった。
しかし、坂下はその怪物を退治した。
おそらくは、綾香に意識はなく、坂下の声など聞こえないだろう。構えていることを見ることも出来ないだろう。それが勝敗というものだ。
綾香が表舞台に出てから、綾香を倒せた者はいなかった。坂下だって、自分を含めて不可能だと断じていた。不可能に手を伸ばす自分を、愚者と思うこともあった。事実、坂下は利口ではなかっただろう。
バカだったからこそ、そんなものに手を伸ばし。バカだったからこそ、それに手が届いた。
まったく、良くやった、と言えよう。人の身で、人の身の綾香を倒したのだ。誰に誇ってもいいし、それを誇りに、坂下はこれから死ぬまで生きていっても、誰も文句は言わないだろう。
ケンカに近いこんな後ろ暗い試合で勝った、それは、一般から見れば、何も誇ることではない。だが、それでも誇れるほど、強かった相手に、坂下は勝ったのだ。
人の身として、坂下は、綾香を追い越した。
坂下は、実に良くやった。
だから、この先は、蛇足とも呼んでも、誰も怒らないだろう。
しかし、ここからが本番であることも、また誰にも否定出来ないこと。否定など、させない。
坂下は急に、まるで毒蛇でも見つけたかのように、後ろに飛んでいた。
毒蛇とは違い、そこに毒はない綾香の手が、坂下の足首をつかみ損ねて、空を切った。
綾香の腕の動きは、実に緩慢な動きだった。いつもの綾香の駿足の動きから言えば、亀でももう少し速いだろう、と思えるほどの遅さだ。坂下ならば、別にそこまで慌てなくとも、簡単に避けられる程度のものだ。いや、その手に、拳をぶつけることすら出来ただろう。
それが出来なかったのは、坂下であっても、本当に意識の外にあったから。
坂下は、驚愕とも驚喜ともつかない表情で、その腕を、その人を睨み付ける。
もう、綾香は動かない。それが最後の抵抗だったのかもしれない。しかし、例え指一本であろうとも、そこから動けるなど、坂下は思っていなかった。観客ですら思うことだが、直に打撃を当てた坂下にしてみれば、確定していたことだ。
それが、覆される。だからこその綾香とも言える。
……本当に、そうだろうか?
だからこその、綾香? 本当に? 綾香ならば、あの状況からでも動ける?
無理だ。あの状態から動くのは、坂下の知っている、もしかすると実力よりも過大評価すらしているかもしれない綾香でも、到底無理。
だからこそ、というのは、ただ坂下が、そうであれば納得出来るからに過ぎない。綾香ならば、あるのではないかという信仰にも似たトラウマがそう思わせているだけだ。それでも、坂下の綾香像と、今そこで動いた綾香は、重ならない。
その差異は、居心地が悪いを通り越して、吐き気を催すほど、恐ろしい。
人の想像する恐怖は、大概は単なる妄想だ。だが、今目の前にいる恐怖は、妄想を超えていた。
ずるり、と、今度は、綾香の身体全体が動く。
ゼハッ、ゼハッ、ゼハッ
荒い息が、静かな試合場に、響く。
膝が、ふるえていた。顔は、持ち上がらない。この次の瞬間には、そのまま倒れて息をしなくなるのでは、と思うほどに、それは弱々しく、はかなげで。
規則正しい荒い息という矛盾を内包しながら、綾香は、立ち上がった。隙だらけで、今叩けば、それこそ坂下ではなくとも届くだろう。必殺などいらない、ちょっとつつけば、それで崩壊する。
だというのに、坂下は、手を出せなかった。
怪物とは、言ったものだ。
あの姿で、怪物とは。笑い話もいいところだった。
人の身で、綾香はここまで来たのだ。人の身で、坂下に勝てないと思わせていたのだ。坂下が全力をかけて、奇跡に近い結果で勝った、それほど強い。
今までは、人の身だった。
だが、今、綾香を倒すほどの相手を前にして、本物の怪物が、目を、開けた。
三眼、開眼。
続く