倒れた綾香に、追撃を加えるべきだった。倒れたからと言って安心するのは、単なる油断だ。後から、そんなことを言う人間がいたとしよう。
坂下は、それに反論出来る。そんなもの、蛇足を超える。明らかな害だ。
倒れた綾香に追撃を加えるとしても、あれ以上のダメージは、命を絶つぐらいしか思い付かない。それほどの感触だったのだ。骨は折れていないだろうが、あの瞬間に、綾香の脳は揺らされ、完全に意識を失っているはずなのだ。
意識を失っても動く、というのは、何も珍しいことではない。もともと、格闘家というのは、反射を極限にまで高めた人間なのだ。意識がなくとも、身体が覚えている動きをして、場合によっては勝ってしまうことすらある。
今の綾香がそうなのか。坂下には、どうしてもそうは思えなかった。
ゼハッ、ゼハッ、ゼハッ、ゼハッ
ダメージの所為なのか、息があがっている。坂下だって息があがってはいるが、それとはまた綾香の息は違うように思えた。
そもそも……
綾香が立つ、とは誰も思っていなかったのだろう。観客も、声を殺して見守るだけだ。それは、まるで声を出せば、その勢いで綾香が倒れてしまうと感じているかのようだった。事実、それほどまでに、今の綾香からは、儚げを通り越し、いつ崩れてもおかしくない危うさを感じる。
坂下は気付いていた。その中で、浩之だけが、ただ一人違う表情をしていることに。驚愕……畏怖……一言では表せないが、綾香を見る浩之の表情を見る限り、何かを知っているのは間違いなさそうだった。
しかし、そうやってまわりを見るだけの余裕が、坂下にはあった。綾香は立って来た。坂下も危険だと思っている。しかし、与えたダメージが大き過ぎる。荒い息を続ける姿を見ても、もうそこには、天才の面影など見つけられないほどに消耗している。
それは、油断ではない、事実だ。もう綾香には反撃の手段は残っていないし、坂下も、綾香を殺すつもりはない。後一発、軽いのを入れても倒れることは確定していると言っていい。もちろん、綾香のことだから、こんな状況でも、一発入れるのに手間取るかもしれないが、手間取るだけで、最終的には、坂下が勝つ。
ダメージが、大き過ぎるのだ。ここからの回復は、この試合中には見込めない。そして、そのダメージを背負ったままでは、いかな綾香とて、満足には動けない。
というより、まったく動けないはずなのだ。
なのに、今、綾香はふらつくような動きで、坂下との距離を詰めて来た。
根性でここまで出来るものか、坂下だって自信がなかったが、しかし、根性以外で、ここまで動ける理由を、坂下は持っていない。人の理にすら反する根性であれば、まず無理だが、もしかしたら、という程度なのだ。
それとも、綾香の負けず嫌いの結果、とでも言うべきなのか。負けることを、誰よりも嫌う綾香ならば、あり得る話だった。
大きく振りかぶる、綾香の腕。無駄がなく、最短を最速で駆けて来る天才の綾香の打撃が、見る影もなかった。坂下は、それでも、油断はしない。例え、自分の拳が先に届くとしても、自分の全技術を使って、そののろまな大振りのパンチを受け流し、その力を持って、今度こそとどめを刺すつもりで、綾香の腕を、受け流し。
ドウンッ!!!!
「っっっっっっ!?」
衝撃が来たのは、綾香の腕に触れた瞬間だった。坂下から見れば、止まって見える大振りのパンチ。受け流すなど、簡単なはずだった。実際、タイミング的には申し分ない動きで、坂下は綾香の腕を受けたはずだった。
だが、坂下の身体は、まるで津波か竜巻に巻き込まれたかのように、否応なくはじき飛ばされていた。
床を足の指でつかむようにしながら、坂下は吹き飛ぶ身体を止める。それでも、坂下の身体は、試合場の真ん中から端まではじき飛ばされていた。
何、が。
起きたことの意味が、まったく理解出来なかった。今の坂下ならば、どんな打撃でも、例えば綾香のラビットパンチを受けたように、寺町の打ち下ろしの正拳だろうが、葵の崩拳だろうが受け流す自信があった。事実、その自信と現実はかけ離れてはいない。
だが、坂下は受けを失敗した。さっきとは変わった立ち位置と、身体に残る衝撃が物語っている。
綾香の不格好な打撃の流れも、それの受け流し方も、きっちり、未来を見て来たかのように、坂下には見えていたはずなのだ。
混乱する坂下。その絶好のチャンスを前に、綾香は肩で息をしながら、動こうとしない。いや、そもそも、坂下の様子がその目に映っているのかどうかすら怪しい。
受けの基本は、相手の攻撃をそらすこと。打撃が進む方向とは違う方向に力を入れてやって、方向をずらし、当たらなくすることだ。そして、同時にその別の方向に向いた力を利用する。坂下の、カウンターとはまた違った、神技とも呼べる技ならば、直接、それを打撃として打ち返すことすら出来る。
だが、その坂下が、受けごと跳ね飛ばされたのだ。
どんな技を、使われた?
そこに技があるのならば、それを看破してしまえばいい。だが、坂下の目を持ってしても、そこにどんな技があったのか分からない。というよりも、技があったとすら思えない。綾香の動きには、ただ力任せに殴りつけた以上のものはなかった。
であれば、技ではないというのか。それこそあり得ない話だ。人のか弱い力では、技以上のものはない。素の腕力だろうが速度だろうが、酷く大人しいものなのだ。そこに技が入るからこそ、一撃で人をも殺せるものへと昇華する。
だが、受けた坂下には、理解出来てしまっていた。技はまったく理解出来なかった。が、代わりに、ただ、腕力を持ってその腕が叩き付けられて、その結果、技でもないその不格好な力を殺しきれなかったのだと。
ダメージ云々の話ではない。明らかに、人のそれを上回っていた。綾香が天才であろうとも、それは越せない。人は、どこまで行っても人。異能の必殺技を使うチェーンソーですら、その存在は人の域を出ることはない。
坂下だって、本当に人でない怪物相手に戦うことになるなどとは、思っていなかったのだ。それは、実戦を経験していなかった格闘家が、路上で負けるようなものだろうか? いや、そんな甘いものでは、ない。
混乱、というよりは、理解したくない、と思う気持ちが、坂下から、少しの間だけ思考を奪った。結果として、その僅かな時間には、何の意味もなかった。綾香は、坂下を再度攻撃しなかったし、坂下も、綾香を攻撃出来ない。
そしてバカらしいことに、坂下は、少しの間だけで、その混乱から回復した。理解し、事実を飲み込んだ。
目の前に、例えば異形の怪物が現れても、大した時間をかけずに、それに順応出来る、という異常さを、坂下は証明してみせた。それに拳を持って殴りかかるぐらいの度胸が、坂下にはあるのだ。
だが、それでも、綾香相手に、今すぐに手を出すことは、出来なかった。
理解と同時に、分析した結果の結論だった。
この怪物を倒すには、生半可な覚悟では、無理だと。
続く