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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(428)

 

 瀕死の相手を前に、手を出さない。この状況だけでまわりから見れば、そうも取れたかも知れない。

 その場で回転するほどの拳を受けて立ち上がっただけでも凄いが、そこから攻撃すらした。腕の振りは、まるで素人のようだったが、あの状態からまだ攻撃しようとする意志を見せるだけでも、驚異的なことなのだ。

 だが、観客達が声もないのは、そういう意味ではない。

 その、素人でももっとましに腕を振るだろうというほど不格好な攻撃一発で、坂下の身体が跳ね飛ばされたことに、声を無くしているのだ。受ける方の坂下は、それこそ素人ではないどころか、一種達人に近いものすら持っているのに、その坂下が、受けを失敗する?

 いや、例え失敗したとしても、あの腕の振りで、人があんなに簡単に跳ね飛ぶだろうか。

 得体の知れないものに人は恐怖を覚えるものだが、今そこに立っている人間が、何よりも、得体が知れない生物だった。

 この中で、それを当然のことと受け取っているのは、ただ一人だった。

 こうなってしまった以上、坂下があんな腕の振りに跳ね飛ばされるのは、当たり前のことなのだ。

 いや、浩之だって、それを当然だとは思っていない。ただ、一度だけ見たことがあるというだけだ。そのときの驚きはかなりのものであったが、時間が、その溝を余計に大きくしていた。

 三眼。

 人にはない、三つ目が開くように、それは、人を超える。

 浩之の兄弟子、修治と対等どころか、明らかに圧倒していた。綾香の強さは、もちろん理解していたが、あのときは、まだ修治の強さを理解していなかった。

 だが、道場に通って、同じように修練を積むにしたがって、浩之もよりはっきりと理解していった。修治も、怪物の一人なのだ。

 綾香の強さは、もちろん重々承知しているつもりだった。だが、修治の強さを理解するに従って、あの三眼が、どれほどバカげたものなのかを、理解させられるのだ。

 否、理解出来ない、というのが正しい。

 ゼハッ、ゼハッ、ゼハッ

 規則正しい荒い息、まわりが見えているのかどうかすら怪しい視点の定まらない目、ふらつくような鈍くてぎこちない身体の動き。

 効率、という面から見れば、これが最強とまで言われる格闘家の動きだとは思えない。坂下ほどの相手には、反対の意味で読み難いのでは、と思うほど、身体を動かすという目的に合っていない、彼女の動き。

 それなのに。

 ゴッ!!

 身体よりも先に、まるで拳が相手に到達する方が速いのでは、と錯覚してしまいそうな拳が、空気を叩いた。坂下は、それを受けずに、横に飛んで避けていた。綾香の身体は、見た目には隙だらけだが、まだ混乱から回復していないのか、もう一度混乱してしまったのか。

 明らかに、綾香の拳はスピードを上げていた。しかし、それだけではない。拳が先に来たとまわりで見ていても錯覚してしまうほどに、その拳には怖さがあった。その恐怖が、綾香の身体の動きを頭から追い出す。

 坂下でなければ、何をされたのかも分からないまま、身体が縮こまって、その拳を受けてしまったかもしれない。その坂下をしても、受け流そうとは思わないだろう。先ほどは身体がはじき飛ばされるだけで済んだが、次は、それでは済まないかもしれない。

 白ける試合、と言っていいのかもしれない。綾香は凄いが、ただそれだけで、浩之の目から見なくとも、誰も坂下が勝てるとは、思っていないだろう。当の坂下ですら、負けると悟っているかもしれない。

 じわりじわりと、染みいるように、しかし強制的に、理解させられる。拳が当たらなくても分かる、少しずつ、慣らし走行を終えたようにスピードを増して来る、その動きの結果を見るまでもない。

 化けの皮が徐々に剥がれるのと一緒に、惚けていた人間も、一方的に知らされていく。

 あれは、怪物だと。

 あれを前提に見れば、今まで見て来た人間の、何と弱々しいことか。元来、人間はそんなに頑丈な動物ではないことを、刻み込まれる。あれの前に立てば、等しく人は平等に、倒されるだろうと。人の血肉を持った、人在らざる存在を前に、人は為す術などない。

 余裕、などではなく、もう結果の見えてしまった試合に興味を無くして、浩之は、まわりに目をやる。

 誰も彼もが、目を見開くようにして、試合場を見ていた。白けた雰囲気など、そこには微塵もなかった。

 まだ、その恐怖は完全には見えていない。本当の意味で固まっているのは、ごく一部だ。チェーンソー、初鹿には、もちろんもう声もない。その手に持つバイオリンケースの中に収まった武器に手を伸ばさないのは、それをしたことろで意味のないことを分かってからではなく、固まって動けないだけだ。

 まだ、ランは惚けているだけだ。応援も忘れて、ただ綾香の驚異的な打たれ強さと、もろもろの強さに驚いているだけ。だが、それも後いくら保てるだろうか。とくに恐がりなランならば、トラウマになるのではないか、と浩之は場違いに心配などしていた。

 そして、葵は、それこそ倒れるのでは、と思うほど顔を蒼白にして、それでも目をそらすことも出来ずに、試合場を見ている。

 とっくに、恐怖は飽和しているだろう。それでも倒れる人間がいないのは、目をそらせば、殺されるのではという原始的な恐怖からだ。一瞬でも、この気配が薄れれば、気付いている者は、誰しも背を向けて逃げ出すだろう。

 だが、その中でも、葵の顔色は、飛び抜けて、悪い。浩之だって、ここに鏡がないだけで、自分が、同じような表情をしているのに、気付いていた。

 ああ、葵ちゃんの気持ちは、俺にもよく分かるよ。

 白けるなど、単なる出任せだった。強制的に無視しようとしても、駄目だ。これ以上ないほどに、浩之の胸の内は、燃えていた。そう、自分の身を酷く焦がし、燃やし尽くしてしまうほどに。

 明らかに、浩之という人間の強度を超える、黒い炎。

 耳をふさいでも、おそらく大声を張り上げても、この頭に響く声は途絶えない。現実とも思えない幻想がその目前にあることを、頭は理解する。幻想ではない痛々しいまでの現実であることを、放棄出来ずに、つぶやくのだ。

 あれに、勝てるのか? と。

 怖気が、来た。

 初めて見たのでもないのに、浩之は、震えを止められない。知っているのと、目の前で見るのとでは、大違いだった。初めて見たときは、まだ、浩之は遠い位置にいた。だから、どこか他人のように見ることが出来た。

 しかし、あのときと比べて、浩之は、その炎に、一歩ほど近かった。

 身を震わせる、熱さ。人はそれ、ときとして破滅へ人を導く炎のことを、夢、と呼ぶ。

 叶えられるも、叶えられないも人の常である、その炎は、しかし、だからこそ、目の前に夢が破れることをまざまざと見せつけられたことに、憤る。

 どれだけ、その内が熱くなろうと、無駄だからこそ、燃え尽きるまで、火は噴き出る。

 無理だ、あれには、勝てない。

 葵の顔が蒼白なのも、浩之が同じ表情なのも、目の前にいる怪物が、夢が破れたことを叩き付けて来るから。目指さなければ、到達しない、ではない。

 到達することはない。

 目指すことすら、させてもらえない。相手は、怪物だ。

 ピキリッ、と。

 

 心の折れる音が。

 

 スパァァァァァァァァァァンッ!!!!

 試合場で激しく響いた音に、邪魔された。

 綾香の拳が、坂下の腕を大きくはじいたのだ。

 だが、それはない。当たればそうなるだろうが、坂下には、避けるにもまだまだ余裕があった。このまま綾香のギアが上がっていけば知らないが、今の状態ならば、まだ坂下が倒れるには早い。

 腕に受けたのではなく、腕で、わざと受けた? いや、それこそ意味がない。ない、はずだった。だが、まだ、綾香の拳の速度は、坂下を捉えられない。坂下に意志がなければ起こり得ない。

 事実、坂下は、倒れていなかった。

 顔をしかめながら、はじかれた腕を、どこか飄々と振っている。

 余裕? 自信? 分からないが、確かに、坂下は綾香の前に、惰性ではなく、確かな意志を持って、立っていた。

 同じ志を持つ者として、浩之や葵は、分かった。

 現状が、理解出来ていない訳ではないだろう。おそらくは、浩之よりも先にその怖さに気付いていただろう。なのに、目の前にいる怪物に、確かな意志を持って、焦がすようなものを内に秘めて、立つ。

 

 まあ、誰にでも理解出来る言葉で言えば。

 坂下の心は、折れてなど、いない。

 

続く

 

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