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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(430)

 

 「これ」が何なのか、聞いてみたい。そういう思いは、もちろん坂下にもあった。

 ただ、今は正体を問題としているのではない。この怪物相手に、戦わなければならないのだ。

 戦う、とは言うが、今のところ、坂下には抵抗らしき抵抗は出来ていない。回避こそ間に合っているが、威力を測る為に受けた片腕は後にしびれが残るほどにはじき飛ばされたし、であれば、と攻撃すれば、真正面から、押し止められる。

 技の道理から外れ、人の道理からも外れ。立っているのすらおかしいままに、坂下をじわりじわりと追いつめていく、怪物。

 今なら、綾香の正体が地球外生命体だ、と言われても信じてしまいそうだった。

 それに、じわりじわり、などという生やさしいものではない。もう、足跡は背後まで迫っている。後何度も回避出来ないだろう。今のままならばともかく、綾香のスピードは、一発打つ毎に上がっている。

 リズムも何もない、ただ動こうとして動いているだけのような、その身体が、ゆらりと揺れる。距離は、まだ遠い。坂下ならば、例え綾香の最速でも対処できる距離だ。

 もう一度、拳が来るのか、と坂下が思った瞬間だった。

 ズドンッ!!!!!!!

 坂下がそれを避けることが出来たのは、もちろん警戒している部分も大きくはあったが、半分以上まぐれだった。

 まるで、大砲のような音だった。

 音が大きい、ということは、それだけ無駄な動きが大きいか、風の抵抗が大きくなるほどに、スピードが出ているか、そのどちらかであり、綾香のそれは、その両方だ。無駄が大きく、しかし、その空気抵抗すらまったく意に介さずに、スピードが上がった。

 転げるようにしてそれを避けた坂下は、そのまま本当の意味で転がって綾香から距離を取った。

 綾香の後ろ回し蹴りは、あっさりと、綾香の本気のスピードを、超えた。

 チェーンソーの異能の必殺技と同じぐらいのスピードは出ていただろうか。しかし、あれのようなためはまったくない。先ほどの拳を振るときよりも、予備動作が少なかったぐらいだ。

 そして、あの異能よりも、異常だった。

 距離を縮めて、蹴る。その動作が、目で追えなかったのだ。気付いたときには、すでに蹴りは放たれた後だった。避けるのも、本当にギリギリだったのだ。

 受ける気など、起きない。スピードが上がったから、あの拳ような威力は消えているかもしれない、などという希望はまったく持てそうになかった。ダメージを見る為に手を出していれば、おそらくは先ほどの一撃で腕を持って行かれていただろう。

 試合場の半分ほどの距離が綾香とは開いているが、坂下はまったく安心出来なかった。今の綾香に、距離など何の意味があるだろうか。

 ゼハッ、ゼハッ、ゼハッ、ゼハッ

 これだけ離れていても、綾香の荒い息が、耳につく。どれだけ経っても、息が整うことはない。しかし、それは疲労の為とは考えられない。うなり声にも似た規則正しい荒い息は、まるで耳の奥、脳に直接響いてくるように、坂下に錯覚させた。

 だが、獣がうなるのとは確実に違う。獣は威嚇の為にうなるのだ。

 今の綾香に、威嚇の必要など欠片もない。

 追いつめられているのは坂下の方であり、同時に、何かしらの抵抗すらも、出来ずにいるのだ。

 受けも駄目、攻めも駄目。まさに、手詰まり。将棋や囲碁であれば、投了するしかない状況だろう。ただ打つのならば、打つ手は色々とあるのだろうが、どれをしたところで、勝てない。勝つ、というゴールへの道は、閉ざされていた。

 閉じているものならば、開ければいい。だが、最初からないものには、どんな手が打てるだろうか?

 坂下は、ぎりっ、と歯を咬みしめる。ただ、誤解しないで欲しい。悔しさの為に、そんなことをしたのではないのだ。それが証拠に、坂下の顔には、笑みが浮かんでいた。

 ズリ…

 坂下の足が、床の上を、滑る。前に、向かって。

 すり足の動きで、見ている方が、少し速すぎるのではないのか、と思うほど、実際は歩くよりもよほど遅い速度なのだが、で、前進する。

 近づくことだけで、見ている者ですら恐怖にすくむ相手と、坂下は、距離を詰めていく。

 ありなし、の部分で言えば、その選択はありだろう。距離が意味をなさないのは、先ほどですでに分かっている。だったら、離れているよりも、近づいている方がいい。スピードで劣っているのに、距離を取るなど、愚の骨頂。いくらスピードで見劣りしようが、身体が密着するまで近づけばスピードは殺される。

 スピードを殺せば、活路はある。いや、あろうがなかろうが、近づかなければ、攻撃は当たらない。あんな遠くから一瞬で攻撃出来る相手に、距離を空けておく意味などないのだから。

 だが、スピードを殺すのと同時に、自分の身も殺してくれと言っているようなものだった。ただ見ているだけではなく、攻撃を片手なりとも受けた坂下は、そこに理などないことは理解していた。その程度で、綾香の攻撃の威力が殺されるとは思っていなかった。

 だから、前に出る。

 この相手に、理など説いて何になると言うのだろう。怪物に、言葉など通じない。理もしかりだ。

 だから、通さないといけないものは、理などではない。

 今、この相手に通すべきものは、無理、だ。

 綾香の姿が、近い。こんな状況でなくとも、すでに必殺の距離まで坂下は間を詰めていた。まるで、坂下がここまで来るのを待っていたかのように、綾香は手を出さずに、ただ荒い息を吐いていた。

 いや、そもそも、今の綾香には、坂下の姿など写っておらず、自分の都合だけで攻撃を繰り返しているだけなのかもしれない。

 ここまで近づいてしまえば、回避など、不可能。少なくとも、距離が開いていれば、逃げる方向には事欠かなかっただろうに。しかし、それを言うのは、いささか、遅い。

「あっ」

 坂下が、何か言おうと、口を開いたのだろう、というのも、その声は続かなかったので、実際はどうしたかったのかは、分からなかった。

 近いが、密着するほどではない。その距離自体には、まったく意味のないような位置に坂下が来たとき、綾香は、動いていた。

 スパーーーーーーーーーーーーーーーンッ!

 坂下の身体が、大きく、吹き飛んだ。

 

続く

 

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