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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(431)

 

 綾香の容赦ない後ろ回し蹴りが、坂下の身体をボロ雑巾のように跳ね飛ばした。

 人の身体は、こんなに簡単に飛ぶのか、と思うほどに、抵抗なく、坂下の身体は大きく跳ね飛ばされたが、試合場の真ん中で受けた為に、金網に叩き付けられるという状況は回避出来た。そして、何より、坂下は、自分の意志で、脚から着地していた。

 おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!

 固まっていた観客が、感嘆の声を出したのも、致し方ない話だ。てっきり、もう終わると思っていたのだ。それほど、今の綾香に近づく、というのは危険なことなのだから。その綾香相手に接近した坂下が、跳ね飛ばされても着地を成功させたのだ。

 言わば、この絶望するような状況を、少しでも打破しようとした坂下に対する、英雄を見るような感嘆の声だったのだ。

 あの近距離で綾香の後ろ回し蹴りを受けた坂下は、ただでは済んではいないだろう。だが、そこに一欠片でも希望があれば、期待してしまう。日本人特有の判官贔屓とも言う。弱い者を、無条件で応援してしまうような社会性から言えば、この状況は坂下を応援したくなるのは当然のことだ。

 自分の方が弱い、と言われる坂下はたまったものではないのだろうが、それが事実。いや、坂下だって、十二分に理解はしているのだろう。

 だが、自分が弱い方であったとしても、それであきらめるような坂下ではない。

 すでに、坂下は折れたことがある。その経験は、一度で十分だった。挫折が、坂下を、この絶望しかない怪物との戦いにつきあわせている一番の原因なのだ。

 ただ、坂下には、他の人とは、大きく違う点がある。

 坂下は、まったく絶望など、していなかった。

 一撃目は、わけもわからないまま跳ね飛ばされた。わざと受けた二撃目は、腕がしびれるというどうしようもない状況になった。三撃目でも、何も出来ずに跳ね飛ばされた。

 今の三度目の受けでも感じたように、身体の奥に、重いものを飲み込んだような感覚が残る。これが、殺しきれずに坂下を侵す、ダメージだ。そして、このダメージは、短い時間で抜けてくれるようなものではない。

 それでも、坂下は、折れる気など、まったくなかった。実に淡々と、勝ちを狙っていた。

 流石は、本物の怪物、と言ったところね。受けても、身体ごと跳ね飛ばされるんだものねえ。

 受けが完全に成功すれば、それだけで受けられた方が跳ね飛ぶ。格闘技という技術はそれこそ人が二足で立ったときから、いや、それ以前から洗練されて来たものだ。その中でも、「受け」という技術は、それこそ妖怪退治にすら通用するのでは、と坂下は思っていた。

 相手の攻撃を無効化しながら、相手の力を利用し相手に返す。何も分からない人間が見れば、魔法を使われているかのように相手が倒れるのだ。そういう部分を一般人が見れば、格闘技に神秘的な力を信じてもおかしくないだろう。

 極端な話をすれば、物理的な攻撃が効く相手ならば、どんな相手であろうとも、倒せる。それが格闘技であり、それが武だ。

 だが、その武を持ってしても、目の前の怪物には、届かない。その点を言えば、坂下には、自分の力不足としか言えないのだが。

 でも、もう少しで、届く。

 何も出来ずに跳ね飛ばされた先ほどの受けに、坂下は、手応えを感じていたのだ。

 何も出来ない、なんて、坂下は感じてなどいなかった。確かに受けは成功してはいないが、失敗もしていない。ちゃんと、坂下は受けて綾香の攻撃を受け流している。それが証拠に、あの攻撃を受けてなお、坂下は立っているではないか。

 受けを失敗していれば、綾香の後ろ回し蹴りを受けて立っていられる理由がない。そこまでは、見ている者のほとんどが理解していないのだろうが、坂下と親しい者の中には、何人かその意味に気付いているようだった。

 流石の坂下も、見渡しで誰が分かっているのか確認はしなかったが、数を出すのならば赤目の姿が見えないので、赤目を除いて四人。葵、初鹿、御木本、そして、浩之だ。さて、当の綾香は、それに気付いているのかどうか、対峙している坂下にも分からない。

 それほどまでに、今の綾香からは、意志というものが見えない。気絶して身体が動いているだけ、と言われた方が、まだ納得できるような、非人間的な雰囲気が、今の綾香からは漂っていた。いや、怪物であるのだから、むしろそれが正常なのかもしれないが。

 この怪物の攻撃を、坂下は、受け流しているのだ。代償として跳ね飛ばされるとしても、仕方のないことだろう。

 しかし、この案は、すでに坂下の中では無理だ、と判断された作戦のはずだった。一撃では倒されないほどには、ダメージを殺すことが出来るとしても、今見ても分かるように、これでは坂下の攻撃は届かないし、完全に受け流せない以上、ダメージは蓄積していく。

 受けが有効なのは、あくまで、それで状況を打破出来るからだ。受けた後に続く反撃なり返しなりで、相手を倒せるからこそ、受けは意味を持つ。ただダメージを減らせるだけでは、単に非常に打たれ強くなっただけと同じであり、もし相手を倒せる方法がないのであれば、何も意味がない。

 何より、後何度、坂下が受けを行えるか、という問題も大きい。

 徐々に上がっていくスピードも問題あるのだが、その点だけで言えば、坂下は気にしていない。どんな攻撃でも、坂下は受けるつもりでいた。認識出来なかった攻撃で負けていた昔とは、違うのだ。今の坂下に、認識出来ない攻撃など、ない。そして、認識出来れば、坂下は受ける。

 だが、ダメージの方は、どうだ?

 もう少しで届くというその言葉を信じたとしても、そのもう少しに、どれほど時間がかかる? その間、坂下は身体の芯に残るダメージを受け続けるのか? そのダメージに、例え身体が全快していたとしてもどれだけ持つのか、そもそも、坂下の身体はもうボロボロのなずなのに?

 それでも、坂下は、受けることを選択したのだ。

 少なくとも、坂下の覚悟には、意味はあった。近づけば、なるほど回避は不可能になるかもしれない。しかし、その代わり、身体全体を使って、相手の攻撃を受けられる。受け流すときに使用するのは、何も腕だけではない。来る力が強いのならば、その力の流れを変える力がさらに必要になるのは必然であり、坂下は、それを身体全体を使って行ったのだ。遠い距離では、不可能とまでは言わないが、難しいだろう。

 まさか、坂下も腰の入った受け、などというものをすることがあるとは思っていなかった。そんな必要、人間を相手にしている限り必要がない。必要がない以上、そんな技術はない。だから、これは坂下の即興に近い。

 だが、その基本となる受け流しは、今まで坂下が覚えて来たものであり、その基本が成り立つからこそ、応用が利くのだ。

 そして、坂下には手応えがあった。

 躊躇なしに、坂下は綾香との距離を詰める。足は浮かない。一瞬でもバランスを崩せば、一撃で、今度は本当の意味で吹き飛ばされるだろう。あくまで、身体全部で受けなければ、この怪物の攻撃を受け流すのは不可能なのだ。

 坂下に躊躇がなかったように、今の綾香には、戦術というものが見えない。そして、さらに同じように、躊躇もない。

 また、今度は先ほどよりは距離が離れていたが、戦術的には何の意味もないような距離で、動く。

 綾香が繰り出した、目では追えないようなスピードの飛び後ろ回し蹴りを、坂下は、当然のように受け、受け流し。

 坂下の身体は、大きく跳ね飛ばされるのと同じに。

 それに、坂下の指の先が、届く。

 綾香の身体も、跳ね飛んでいた。

 

続く

 

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