坂下と綾香が、衝突したように両方吹き飛んだ理由が、浩之には分からなかった。
「……坂下、何やったか、葵ちゃん、分かるか?」
浩之は、たまらずに、葵に声をかける。今の葵に声をかけるのははばかられたが、だが、何が起こったのか気になるものは気になるのだ。
「い、いえ、残念ながら。特別なことはしてないと思います。今の綾香さんの攻撃を受け流すのが特別じゃないとは言えませんけど」
先ほどまでは蒼白な顔をしていた葵も、我に返って、浩之の質問に答える。もっとも、答えとしては、葵も持っていない。どちらの攻撃も当たったようには見えなかった。力の流れまで目で見える訳ではないので、詳細は葵にも分からなかったが、少なくとも、坂下からの攻撃はなかったように思えた。
「初鹿さんは……」
坂下には負けてしまったが、チェーンソーの強さは本物で、今の時点での総合力であれば、もしかすれば葵よりも上であるかもしれない初鹿に、浩之は僅かな希望を持って、訪ねた。初鹿も初鹿で、今の綾香の強さに完全に集中していたが、話しかけられたことで、金縛りが解けたように、表情に落ち着きを取り戻す。
「私にも、何も見えなかったですね。坂下さんの受けの凄さには驚くばかりですけれど、受け流しただけで、あの来栖川さんがあそこまで飛ぶのは不自然ですから、何かあるのでしょうね。興味があります」
あの来栖川さん、と言っているが、今の綾香は、人の枠をも超えているのではと思うほどの強さを放っている。あの攻撃を受け流すことも凄いが、吹き飛ばすとなると、一体どんなことをしているのか、浩之でなくとも知りたいはずだ。
だが、これほどの強さの人間がそろっているのに、その誰もが、何が起こっているのか理解出来ない。そもそも、今の綾香が理解できない時点で、坂下がやったことを理解しようとすること自体に無理があるのかもしれない。
坂下は、確かに、この強さを持つ綾香にも対抗出来る、と実践した訳だが、その方法までは、親切丁寧には教えてくれないということだ。
ただ、救いがあるとするならば、少なくとも、今の坂下からは、怪物のにおいはしない。目の前にいる綾香のにおいがきつすぎてにおわないだけではないだろう。あくまで、坂下は人として、綾香と戦っている。
それを凄いことだ、と浩之は素直に思う。悔しいとは、まったく思わなかった。
あの、「三眼」の状態の綾香と対等とまではいかないまでも、真正面から渡り合っている坂下を見て、それでも?
そう、まったく悔しいと感じない。
何故なら、浩之は、それでも、綾香が負ける場面が、まったく想像出来なかったからだ。
浩之の想像は、坂下にとっては、どうでも良かった。ようは、相手をどう出来るか、自分がどう出来るかであり、第三者の想像など、問題にするような場面ではないのだ。
少なくとも、坂下は、綾香をどうにかしていた。
吹き飛ばされた坂下は、すぐに構えを取っていたが、綾香の方は、足から着地したというのに、縮こまった状態から、動こうとしない。
ただ、今の綾香に構えが必要とは思えないので、あれはあれで戦闘態勢なのだろう。
どんな態勢であろうとも、動きがぎこちなくとも、そこから一瞬でトップスピードの打撃が繰り出されるのだ。坂下でなければ、受けるどころか、察知することさえ不可能だっただろう。
しかし、そんな綾香にも、弱点はある。綾香が吹き飛んだのが、何よりの証拠だった。
坂下は、浩之達の目測と同じように、ただ綾香の攻撃を受け流しただけだ。だが、それで綾香は吹き飛んだ。
そこから導き出される答えは、綾香が、その強大過ぎる力を、制御仕切れていない、だ。
確かに、綾香は強い。強過ぎる。どんな体勢から放たれる一撃も、まさに必殺の威力を秘めている。そして何よりも理をぶち破っているのが、飛び後ろ回し蹴りという経験者相手には隙だらけの技を、ジャブを放つように平気で、そしてジャブと同じような初速で放ってくる、という事実だ。
技自体には、何も特別なことはない。型だけで言えば、まだまだ不格好と言っていいだろう。それが徐々に洗練されていっていることにも気付いてはいるが、だが、まだ技は目を見張るようなものではない。
だが、そこに異常な力が加わると、話は色々と違ってくる。単なる技が、必殺の技となる。格闘技が肉体を使う以上、例え多少非効率であろうとも、より良い身体能力によって上の段階に引きずりあげられるのは、むしろ当然だ。
しかし、思い違いをしてはいけない。綾香の放つ技自身は、あくまで単なる技だ。力によって異常な効果を発揮しているが、所詮は、技のレベルは変わっていない。
例を挙げるのならば、車がいいだろうか。車のスピードを上げるのならば、まずエンジンをパワーアップさせるだろう。出力を上げれば、スピードは上がる。しかし、それでレースをしても、勝てるとは限らない。
エンジンの出力を上げれば、当然、その力を制御出来る駆動部分が必要になってくる。出力を出力として外に出せなければ、意味がない。そして、さらに言えばドライバーのテクニックがなければ、その出力を有効には活用出来ないだろう。
技は、丁度その駆動部分やドライバーの腕の部分にある。
今の綾香のエンジンは、明らかに人の域を超越している。もうそれは間違いのない話だ。が、その力は、酷く危うい中で使用されている。綾香の才能を持ってしても、人外の力を制御しきるなどということは、不可能であったのだ。
だから、綾香の技を受け流し、技のバランスを少しでも崩すことに成功すれば、まるで自分から吹き飛んでいくかのように、簡単に綾香は飛ぶ。丁度、ハイスピードで走っている車のハンドルを、ちょいと横から手を出して曲げてやるのと同じだ。
横に壁があればぶつかるだろうし、バランスを取り戻そうとスピンするかもしれない。強い力というのは、つまり加わる力の加速を意味する。そこに、本人の意志があろうとなかろうとだ。
反対に考えれば、そんな危うい力を、邪魔されなければ、危うくとも使えている綾香の才能には、脱帽するしかないのだろうが、だからと言って、その弱点を見逃してやるほど坂下は優しくもバカでもない。
つまり、坂下には、綾香に対抗できる手段が、あるのだ。
そして、それは重要ではあっても、目的では、なかった。
受け流しは、あくまで、相手の攻撃を無効化するだけだ。それでは、相手を倒せない。受け流せるだけで飛び跳ねて喜ぶような、坂下ではない。
坂下を、なめてはいけない。
受けは、あくまで、目的の為のとっかかりに過ぎない。その手段が有効であり、坂下に合ったから選択したに過ぎない。
受け流しているだけでは、話にならない。そもそも、それでは勝てないと結論を出したのは、坂下本人だった。受け流して、相手の力の暴走だけで勝敗が決すると思うほど、坂下は甘い戦いをしてこなかった。
ギュムッ、と坂下は、その人を砕くのには十分な硬さを持った、凶器とも呼べる拳を、握りしめた。
坂下の目的の為の手段としては、受け流すのは、あくまで第一段階であり。目的とは、当然勝つこと。そして、手段の第二段階は、言わずと知れたこと。
この拳を、たたき込むことだ。
続く