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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(436)

 

 腕を掴まれる。この著しく動きを制限される状況で、綾香の蹴りを受け流す。

 それは、坂下にとっても不可能と断ずるしかなかった。だから、坂下は、受けなかった。攻撃の手を止めることなく、と同時に躊躇せずに、綾香に向かって距離を詰め、そのまま、身体をぶつけた。

 それは、綾香の蹴りのスピードが、さすがにその不安定と言うのもおこがましいほど酷い体勢から放たれた蹴りの速度が、そう速くなかったからこそ出来たことだが、それを選択したのは、かなりのところ、勘でしかなかった。

 だが、坂下の判断は、誤りではなかった。蹴りを懐に入って回避し、かつ、宙に浮いたままであった綾香の身体は、坂下の体当たりを受けて、あっさりと後ろに飛ぶ。掴んでいた手も、坂下の手刀を受けることを嫌って、離れていた。

 ガシャン、と金網にぶつかった綾香を、しかし、追撃する脚は、さすがの坂下にも残っていなかった。それよりも、そこまでの動きで致命的なダメージを受けなかっただけでも僥倖だった。

 金網とは言え、足場を確保した綾香に、ただ突っ込むのでは、先ほどまでの攻防とは変わらないが、それでも、危機は脱したと思っていいだろう。

 体当たり自体は、強いものではなかったので、ダメージが当たっていたとしても、ほんの僅かで、おそらくは無傷と思っていいだろう。坂下の目的は、まったくもって達せなかった。掴まれた腕が鈍い痛みを訴えかけてくることを考えれば、失敗したとすら言えるだろう。

 だが、もともと今の綾香相手には、薄氷の上を歩くかのような戦いしか出来ないのは、分かり切っていたことだ。こちらがチャンスを取ったと思えば、それは反対にピンチになる可能性を含むのは致し方のないこと。

 受け流して身体が飛ぶのを、力を下に向かわせることで回避し、綾香が攻撃態勢を整えるよりも先に攻撃する。選択としては、そう間違っていなかったはずだ。いや、相手が宙にある間に出来るだけのスピードがあるのならば、最上の選択だっただろう。

 宙で回転していても、攻撃してくる可能性は高い、と踏んでいた。だからあっさり受けを成功させたのだ。だが、それがまさか、こちらの腕を取るための布石でしかなかったとは思わなかった。それはそうだろう。攻撃しながら、こちらの腕を掴む余裕があるなどとは、誰も思わない。

 危ないところだったのだ。勘に従って体当たりをしていなければ、もし蹴りを腕で防御しても、掴まれた腕を解放するのには失敗する。その手を攻撃出来る時間があればいいが、体勢を整えた綾香からの攻撃の方が早い可能性すらあった。そうなっては、目も当てられない。

 まだに、どちらもギリギリの戦いだ。一発当てれば、どちらにでも転ぶのだ。一撃一撃は、綾香の方が威力が高く有利なのだろうが、坂下には、今まで与えて来たダメージの貯金がある。どれほどのものか数値には出来なくとも、確実に溜まっているはずなのだ。

 軽い勢いでぶつかった金網から、綾香は何の躊躇もなく床の上に降りる。しかし、残念ながら坂下と綾香の距離は遠いし、金網から降りる間など、一瞬にも満たなかったので、そこを狙うというのは不可能だった。そして、おそらく狙ったとしても成功しない。下手に手を出せば、金網ではなくポールを蹴って、綾香が飛んでくることは容易に想像出来た。正直、ただでさえ受けにくいのだから、下手にいつもと違う動きは取って欲しくなかった。

 まったく、ほんとに怪物だね。嫌になってくるよ。

 薄ら笑いすら浮かべてそう思いながら、坂下は綾香を睨み付ける。

 ゼハッゼハッゼハッゼハッ

 と、相変わらず荒い息を吐く綾香に、坂下は、僅かながら、違和感を覚えた。

 それが何かを判断するのには、数瞬しか必要としなかった。今の坂下の集中力は並ではない。頭の回転の方も、かなり上がっていた。何より、戦いのことになれば、坂下はどんな些細なことですら見逃さなかっただろう。

 息が、速い。一瞬、自分の息がそれほどあがっているのか、と思った。確かに、坂下の息はかなりあがってはいたが、息の苦しさで動きを妨げるには、もう少しだけ余裕があったし、相手にリズムを読まれない為に、坂下の吐息は極力静かなものになっている。こんなに大きな音が出るのは、それこそ限界を超えたときだけだ。

 ……息が、あがっている?

 規則正しい荒い息、という、どこか矛盾を抱えていた綾香の息吹のスピードが、早まっていた。だからどうした、と言われれば、その因果にはすぐには答えられないが、変わった、というのは、それはそれで大きなことなのだ。少なくとも、無視していい内容ではない。

 いや、息吹のスピードが上がる、ということ自体を考えれば、熟考の必要はない。つまりは、それだけ綾香に疲労が溜まっている、ということだ。

 坂下が、壊れた感触だ、と判断するほどの打撃を受けてなお立ち上がり、そしてさらに人の域すら超えて動く綾香。今更、限界などという言葉もおこがましいかもしれない。だが、人の身である限り、いやさ例えそれが怪物であろうとも、限界は、必ずある。

 僅かではあるが、綾香にも、この怪物にも、限界に近づいている証拠だ、と坂下は判断した。

 受け流しては、お互いにダメージを分け合う形になっているが、まだ坂下の戦う牙は折れていない。綾香だって、スピードが減るのは、身体が宙にあったときだけだ。しかし、それにも、やはり限りはあるのだ。

 もちろん、限りがあるのは、どちらも同じこと。

 綾香に限界はあるだろうが、その前に坂下に限界が来てしまってはもともこもない。それに、正直、坂下の限界はそう遠くない話だった。ただ受けを行うだけでも、着実に終わりに近づいている。だからこそ、攻撃しようとしている訳だが。

 どちらが先に限界に達するか、すでに人の手を離れそうな世界で行う、綾香と坂下のチキンレース。

 臆したらその時点で終わるし、臆さずとも、さて、あと何度行えるか。しかし、坂下は、引き下がる気など、まったくない。どうせ下がったところで、勝機など生まれないのだし、受け流すことによって、坂下はちゃんと勝機を生んでいるのだ。

 ずるり、とさらに動きの鈍ったように、綾香が坂下に向かって動き出す。

 坂下も、それに答えるように前に出る。もちろん、こちらの攻撃を当てる為だ。スピードと間合いの関係で、綾香に先に攻撃されるかもしれないが、それは今更であり、その程度は想定内だった。結果的に、こちらの攻撃を当てればいいだけだ。

 坂下は、まったくもって折れてなどいないし、希望を捨ててはいない。

 だが、坂下の考えは、いくらか、間違っていたことがあった。もちろん、正しいこともある。

 例えば、綾香の息があがっているのは、確かに限界に近づいてきている所為ではあった。その判断は、正しい。

 少なくとも、この怪物にも終わりというものもある。それも正しい。

 ただ、息が速くなったのは、限界に近づいているというよりは、別の目的があって速くなったものだった。つまりは、人とも思えない動きをする為に、無理矢理速度を上げて空気を取り込んでいたところから、さらにそれを加速させたのだ。

 そして、坂下が、致命的なまでに間違えていたこと。

 ダメージを受けて、どれほど耐えられるものか、という問題も、坂下はかかえていた。だが、そもそも、それは綾香の攻撃を受け流せる、という考えのもとに想定されたもの。いや、そこに、坂下は絶対の自信を持っていた。

 認識出来た攻撃を、坂下は全て受けることが出来る。今の綾香のように、すでに人の域ではない攻撃すら、その範囲内だった。

 その悔しさが、坂下を育てて来た。だから、同じ失敗は繰り返さない。認識出来ない攻撃を受けて負けて来た坂下だが、あのころとは、違うのだ。

 だが、その思いこそが、間違い。

 またしても、何でもないような距離、しかし、坂下の攻撃は決して届かない位置で、綾香は攻撃を繰り出した。のを、坂下は、認識出来なかった。

 

 綾香の攻撃は、坂下の認識力を、まったくもってあっさりと、超えた。

 

続く

 

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