次に、坂下が意識出来たときには、坂下の身体は、金網にのめり込むようにもたれかかっていた。
綾香に向かって行った、そこまでは間違いない。しかし、その後の記憶が、坂下の頭からはさっぱり消えていた。
意識を、失っていた?
あり得ない話ではない。蓄積されたダメージの状態では、いつ意識が飛んだとしてもしても何も不思議ではない。まして、綾香の打撃を受け流して、ダメージを受けたのならばなおさらだ。むしろすぐに意識を回復したことを喜ぶべき場面だ。
いいや、違う、と坂下は頭を振った。
攻撃を受けたのならば、こんな状態も理解出来る。しかし、坂下には、攻撃を受けた記憶も、攻撃を受け流した記憶も、まったくない。
綾香への距離を詰めた、その時点から、坂下の記憶は完全に飛んでいた。
ダメージが意識を朦朧とさせているのならば、危ない状況だった。試合中の記憶がないぐらいはたまにある話なのだが、それはつまり限界以上のダメージを受けて、身体が意識を手放してしまったということだ。勝てればそれでもいいのだろうが、そんな状態で対抗出来るほど、綾香は甘い相手ではない。
坂下は、のめり込むように背を預けていた金網から背を離し、立ち上がろうとして、愕然とした。
脚に、まるで力が入らない。浮いているようにも感じるし、鉛を飲み込んだようにも感じる。普通に立っていることにすら、努力がいる。
つい数時間前の坂下ならば、そのまま膝を屈して終わっていた。しかし、この怪物との戦いが、成長だけでなく、坂下の限界をも僅かながら乗り越えさせた。でなければ、とても両の脚では立っていられなかっただろう。
先ほどまでも、ダメージはいい加減限界には来ていた。しかし、今の状態は、それよりも遙かに深刻であった。
一体、何が……
一瞬、蓄積されたダメージが、等々限界に達したのかと思った。
だが、それを、坂下の中の何かが否定する。先ほどまでのダメージは、確かに限界を超えていたが、ここまで酷くはなかった。
坂下の意識が飛んでいる間に、一体何があったのか。いや、そもそも、坂下の意識が飛ぶ、そのこと自体、この状況ではありえない。致命的と言う意味で、ありえないはずだ。
坂下は、ぞっ、とした。意識しても、顔が青くなっていくのを、止められない。それは、折れて立ち直った坂下であっても、いや、折れた経験があるからこそ、痛みを知ってしまった彼女だからこそ、逃れることの出来ない、恐怖。
……届かなかった、のか?
坂下は、今までに完全な敗北を二度、経験して来ている。そのどちらもが、坂下が認識出来ない打撃を受けての敗北だった。
だからこそ、坂下は立ち上がったとき、何よりも、それに執着した。認識できない攻撃で負けたのならば、全ての攻撃を認識出来るようになってしまえばいい。その単純で乱暴で真理を持って、坂下は強くなった。二度目の敗北、葵に対しての負けが、それを加速させた。
打撃の神髄に近い、最小の動きで最大の威力を発揮する崩拳。その早さを受けて、坂下は、さらに、ありえないはずのスピードの攻撃までも想定して、自分を鍛え上げた。だからこそ、坂下の前に、異能すらも膝を屈したのだ。むしろ、速度を誇る技を使ってくる相手との相性は最高とも言える。いや、その他のタイプで、坂下相手に「相性として有利」という相手などいないだろうが。
坂下は、おそらくは意識を無くさなかった。だが、ダメージは受けている。
もう、坂下が認識出来なかった攻撃が来たとしか、結論が出せなかった。
坂下が認識出来ないほどの打撃で吹き飛ばされた。だから、その間の記憶などない。記憶出来るような時間が、そこにはなかったのだ。綾香の攻撃は、おそらく誰にも認識出来なかった。気付いたときには、坂下は跳ね飛ばされた後だったのだから、当然だ。
折れ、立ち上がり、そして進んで来た坂下だからこそ、何があっても倒れようとはしない。倒れた痛みを知っているからだ。
そして同時に、坂下は、恐れてしまう。同じことが、またあったのならば、がむしゃらに立ち向かっても、同じように、折られるとすれば。その痛みを知っているからこそ、余計に、怖い。考えるだけで脚がすくむ。ふらつくのは、何もダメージの所為ばかりではない。
しかし、坂下は間違わなかった。まだ、折れてはいない。ダメージも限界など超えて久しいが、それでも、坂下はまだ立っていられる。ならば、戦える余地はあるということだ、。
なるほど、今まで認識出来なかった攻撃で、坂下は負けて来た。しかし、問題は認識出来ない攻撃ではない。負けることこそが、問題なのだ。負けていないのならば、まだ、敗北ではない。まだ、折れてなど、いない。
それすら、強がりとしか言えない。すでに坂下は攻撃を出せるような状態ではないのだ。無防備に綾香の攻撃を受けるということは、命の危険に直結する。セコンドがいれば、タオルを投げ入れないと殺人者扱いされる、それほどの状況なのだ。
にも関わらず、坂下は、まだ向かっていこうとしていた。すでに考えた通りに動けているかどうかも怪しい身体に鞭を打って、気丈にも、顔を上げる。
そこで、やっと疑問に思った。
何で、綾香は攻撃して来ないんだ?
その疑問とほぼ同時に、坂下の目に、綾香の姿が写った。
試合場の丁度反対側の、金網の前、どこか不器用な動きで、綾香が立ち上がろうとしているのを。
……綾香が、倒れていた?
それこそ、不思議な話だった。自分が受けに成功していればそれもおかしくはない。お互いにダメージを受けるのだし、今の綾香は、お世辞にも器用とは言い難い。あふれるような怪物の力を、かなりのところもてあましているのだ。
だが、坂下は、綾香の攻撃を、認識出来なかった。来ると分からないものを、受け流すことは出来ない。ほぼ反射の域にまで立っている坂下の受けだが、それでも、そこには坂下の意志や手応えがある。
しかし、がくがくと、身体を震わせながら立つ綾香は、決して勝っているようには見えない。先ほどよりも、ダメージをうけているように坂下には見えた。
……まあ、どちらにしろ、どうせ受けなど、もう出来ないのだ。綾香がどんな状態であろうと、まず、身体が言うことをきいてくれない。しかし、それでも、受けるだけだ。
もし、今までのダメージで、綾香の動きが鈍っていたとしても、正直今の坂下では受け切る自信はなかった。受けに成功しても、それで蓄積されるダメージが、身体を動かなくする可能性も高かった。
だが、綾香のスピードは、落ちない。坂下は、まさに盲信とも言っていい思いで、それを結論付けた。
そして、受けることが出来るのならば、坂下は受けるつもりだった。玉砕覚悟で攻撃する、という手段も、もちろんある。だが、坂下にとって、それは逃げでしかなかった。相手の攻撃を受け流す、それが坂下が出せる最大の力であり、そこから生まれる神速の打撃こそが、坂下の必殺技なのだ。
玉砕すらも、坂下は許さない。どこまで追いつめられても、自分の出せる全力を出す。勝ちを、狙う。
しかし、そんな坂下の悩みすら、綾香の前では、何の意味もなさない。
まるで酔っぱらいのように、ふらつきながら綾香が坂下との距離を詰めて来る。坂下も、それに応えるように前に出る。正直、前進するだけでも、身体がどうにかなってしまいそうだが、そんな泣き言を、坂下は自分にだからこそ許さなかった。
そして、打撃が届くなどと思うには、あまりにも遠い位置で、綾香は、攻撃に移った。
ただし、その攻撃を、坂下はまったく認識出来なかった。というよりも、見ている者誰も、それを見た者はいない。事実としては、攻撃という行いは確かにあった。しかし、その速度によって、その事実は、見た目には何もなかったようにすら感じられた。
誰もが、攻撃が終わって、お互いに吹き飛んでから、やっとそれに気付く。そんな、もう格闘技とは思えない戦いが、試合場では、繰り広げられていた。
綾香の攻撃を認識することに、坂下は失敗し、吹き飛び。
綾香は、坂下の受けによって、吹き飛んだ。
続く