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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(439)

 

 跳ね飛ばされたことさえ、その瞬間には気付けないほどのスピードで、二人の攻防は繰り返される。

 まず、坂下が跳ね飛ぶ。おそらく同時に跳ね飛んでいるのだろうが、その瞬間を、今のところ坂下は認識出来ていない。自分が吹き飛んだのを感じて、素早く体勢を立て直すことだけを考えている。

 そして、体勢を立て直すのは坂下の方が先。綾香は、むしろ鈍い動きでもたいついている。だから、距離を詰めるのも、坂下の方が先になる。

 しかし、それでも攻撃が当たるのは、綾香の攻撃が先だ。いいや、綾香の手順しかないと言って良いだろう。十分に距離が開いているはずなのに、綾香の身体は距離に意味はないと言わんばかりに攻撃してくる。

 そんな攻防を、何度続けただろうか?

 回数にすれば、片手の指でも十分数えられるだろう。しかし、その数回が永久に思えるほどに、坂下の状態は酷かった。

 すでに限界は遙かに超えたところで戦っているのだ。体力の面でも無理どころの話ではないし、坂下自身、どうやって戦っているのか分からないのだから、気分は暗闇で手足を縛られたような状況で、刃物を持った殺人鬼と対峙しているようなものだ。

 にもかかわらず、坂下は歩を進めるのを止めない。負けを認めなくとも良い、立って、そのまま待っていれば、そのうち綾香の方が倒れるのではないか、そんなことすら思える状況で、それでも攻撃される為に、距離をつめる。

 まさに、攻撃される為に、だ。

 もう、ここからどうこう出来る手立ては残っていない。後は倒れるだけだというのに、命を削るようにして、坂下は何をしているのか。坂下本人だって、自分の行動に先ほどからずっと疑問を持っているのだ。

 しかし、そう考えただけで、坂下の身体の奥から、カッと熱くなるものが溢れ出て、坂下の脚を動かす。

 今更、止められるか!!

 言うまでもないことだ。勝ちを狙っているのだ。この怪物に勝利することを考えているのだ。その為に、こんな無意味な行為を続けるのだ。勝つまではこの戦いは終わらない。いつまでだって、続くのだ。

 人は、それを夢におぼれている、と見るのだろう。頑固なのではない、もう逃れられないところまではまってしまった状態なのだ。選択肢を自ら狭めてしまった以上、後は、ただ堕ちていくのみ。

 それでも!!

 坂下は、血を吐くように、頭の中で垂れ流される弱音に向かって、吼える。それだけ、ずっと考えて来たことを。

 

 私は、綾香に、勝ちたい

 

 これで何度目になるのか、坂下は、着地すると、立ち上がった。地面が歪むどころではなく、立っている感覚もすでにない。

 先ほどまで、うるさいほどに聞こえていた綾香の規則正しい荒い息も、いつの間にか聞こえなくなっていた。そのわりには、綾香はまたぎこちない動きでゆっくりと身体を起こそうとしている。

 まだ、自分の勝ちではない。

 綾香が動いていることを見ても、出てくる感想はそれぐらいのもので、やはり脚は止まらない。それが自分を痛めつけるだけの行為だと先ほどから坂下の中でうるさかった自分自身の声も聞こえなくなっており、坂下は今度こそ何の疑問もなく、前に出ていた。

 等々限界が来てしまったのだろう、坂下は冷静にそんなことを考えていた。もっとも、限界という意味ではすでに超えて久しいのだが、そんな状況で動き続けるのは、いい加減常識を無視しすぎた。ここらが終わり所なのだろう、と。

 しかし、それとは別に、神経はまるでヤスリで削られていくように、細く、そして鋭くなっていく。

 細くなり過ぎたそれが、削りきれる前に、強い力で引っ張られすぎたのだろう、ぷちんっ、と切れるのが、坂下には見えたような気がした。

 それが、合図だった。

 

 音は、先ほどからすでに心の声すら聞こえなくなっている。

 今度は、色が消える。世界が、白と灰色で覆われる。しかし、それにすら坂下の頭は疑問を挟まない。

 そして、視界が狭まる。するすると細くなる視界の中で、前にいる、勝ちたい相手だけが、ただ一つ、消えずに坂下の世界の全てを覆う。

 一の眼(まなこ)で、坂下は、それを見ていた。

 ゆっくりと、綾香の身体が動く。先ほどまでの不格好な動きは、そこにはない。まるでもって無駄のない、ただ完璧に洗練された、ただただ、力任せの動き。効率とかそういうものを真っ正面から叩きつぶす、怪物の合理。

 しかし、それが、今の坂下から見ればスローモーションのように見えていた。動く残像すらも、手に取るようだ。

 綾香の身体が、ぐるりと回転して、坂下に背中を見せる。と同時に、綾香は、床を蹴った。その勢いは、すでにこれ以上力を入れる必要もなく、一直線に綾香の身体を坂下の元まで運ぶ。その回転した身体は、まさに暴力の塊だった。

 なるほど、まさに怪物の牙のようだ。怪物の後ろ回し蹴りを見て、坂下は思った。

 これだけの動きが、一瞬すら生ぬるい時間で繰り出される。高速で移動する竜巻に巻き込まれるようなものだ。人のあらがえるようなものではない。

 そう思いながら、坂下は人である腕を動かす。自分の腕の動きも世界と一緒で遅いが、何、相手の攻撃が届くまでには、届く。

 とは言え、そのゆっくりとした世界でも、やはり怪物の動きは違う。あれよあれよと言う間に、その後ろ回し蹴りは坂下に近づいていた。坂下は、慌てない。そうあるかのごとく、綾香の攻撃が来る位置には、坂下の腕がある。

 どんな怪物であろうとも。

 認識した攻撃を、自分は受け流す。

 その言葉通り、坂下は、綾香の飛び後ろ回し蹴りを腕で受け、受け流す。

 

 そうやって、怪物は、牙をむいた。

 

 あっけない感触で、坂下の肩が抜けた。

 本当ならば、受けた腕が完全に破壊されていただろう。しかし、坂下は寸前のところで受けを成功させ、いや、成功は言い過ぎか、身体全体で衝撃を逃がした。肩が抜けたのだから、逃がしたというのは語弊があるかもしれないが、衝撃を身体に伝える為には、どうしてもどこかに無理をさせねばならなかった。とにもかくにも、片腕を犠牲にして。

 坂下と綾香の距離は、広がらなかった。

 ゆっくりと動く世界で、坂下は拳を突き出す。攻撃などという色気を出さない、と思ったのは過去の話。今手の届く位置に、怪物がいた。届けば、今度こそ、この怪物に勝てる。攻撃しない理由はなかった。

 焦っていた、訳ではない。焦るなどという高等な精神的活動を行えるようなものは、声すら聞こえない今の坂下には残っていなかったのだから。

「あはっ」

 だから、そうやって綾香が口の端をつり上げて笑ったのは、坂下の錯覚だったのだろう。そもそも、今の坂下には、綾香の背中しか見えていない。

 しかし、その後は、間違いなく錯覚ではなかった。

「綾香ぁっ!!!!!!!!!!!」

 試合場の体育館のガラスが割れそうなほどの大音量で、その叫びは上がった。おそらくは、間延びして坂下の耳には入っていたのだろうが、それがやっと坂下が理解出来る言葉になったのだろう。

 どこか優しげにすら坂下には見えるそのゆっくりとした時間の中で、坂下の拳は突き出され。

 それは当たることなく、坂下は、綾香の後ろ回し蹴りを食らって、意識ごと、吹き飛んだ。

 

 二回転してもまったく衰えることのなかった綾香の後ろ回し蹴りを頭に受けて、坂下の身体は、その場で二回転して、床に、落ちた。

 すたり、と今までの動きがまるで夢であったかのように、軽やかに床に降りた綾香は、黙ったまま、何かを待つように、立つ。

 立たない。

 坂下は、立たない。動きは、ない。綾香のように、怪物のように、立ち上がって来ない。

 人では、立てない。立てるのは、怪物のみ。

 分かっていたことだが、坂下は怪物ではなく、神でもなかった。

 ただ一人を除いて、誰もが静かだった。

 そのただ一人は、何度も、叫ぶ。

「綾香っ!!」

 名前の主はちゃんと立っているのに。

「綾香っ!!」

 金網に張り付いて、必死に、何度も何度も叫ぶ。

 まるで、彼女を責めるかのように。

 

 そして、やっと我に返った赤目の声が、この長い戦いの、終わりを告げる。

「conclusion(決着)!!!!!!!!!」

 その言葉と同時に、綾香の身体も、実に予定調和を演じるかのように優雅に、床に落ちた。

 

続く

 

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