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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(440)

 

 目を開けたとき、目に写ったのは、白い壁だった。

「…………っ!?」

 一瞬の間の後、坂下は、あり得ないほどの痛みに身体を動かそうとして、しかしそれで余計に痛みが酷くなるのにまったく身体を動かすことが出来ずに、しばらくの間、一人でもだえていた。

 五分ほどもそうしていただろうか。やっとのことで少しだけ落ち着いた、と言っても相も変わらず激しい痛みは身体を苛んでいるのだが、坂下は、状況を把握しようと、当たりを見渡そうとして、首がまったく動かないことに気付いた。というよりも、一番痛みが酷いかもしれない。

 そして、そんな坂下を待っていたかのように、声が、かけられる。

「おはよ、好恵」

「……綾香か。てことは、今の私はろくなことにはなってないってことだね」

 正直、口を動かすのも後悔するほどの全身の痛みだが、坂下は、憎まれ口を叩かずにはおれなかった。

 それでも、坂下は痛みには強い。時間が経ったことと、聞こえて来た憎たらしい綾香の声で、徐々に何があったのかを思い出した。

 いや、正直、気を失うまでの最後の方はもやがかかったような、それでいて鮮明に思い出せるような、不可思議な感触があったが、とにもかくにも、これだけは確かなようだった。そう、それがまず一番大事で、どういう答えが返って来るか分かっていても、聞かずにはいれなかった。

「私は、負けたのか」

「ええ、私が、勝ったわ」

 綾香の言葉は簡潔で、誰が聞いても間違えない内容だった。そこに、言葉を濁す要素はまったくなかった。いや、むしろ言いたくて仕方がなかったようにすら聞こえた。

 坂下からは綾香の姿は見えないが、それでも綾香がどれほど嫌らしい顔をしているのか、簡単に想像出来る。この綾香に、手加減などという言葉を選ぶという常識はない。もっとも、その点で言えば、坂下だって負けていないのだから、自業自得とも言えるのだが。

 一番はっきりさせなければならないことを確認すると、坂下の頭はもうかなり正常に動き出していた。綾香の言った結果、そして自分の状況、そういうものから判断して、自分がどんな状況で、どこにいるのかまで想像出来た。

 白い壁と思ったのは、白い天井だ。坂下は、ベットに寝ている。そして、おそらくは全身、特に首あたりは固定されている。自分では見えないが、おそらくは身体全身が、漫画みたいに包帯でぐるぐる巻きにされているのだろう、と予測をつける。

 見覚えのない天井を考えると、どこかの病院なのだろう。まあ、普通に考えればマスカレイドの関係の病院なのだから、健介が入院していたのと同じ病院の可能性は高い。

 正直、坂下は、自分が病院にいることに驚きさえあった。いや、坂下ほどの無茶をすれば、医者のお世話になることは多いし、綾香が空手と決別するときに戦ったあの私闘では、脚と腕を一本ずつ折られたので入院も体験しているから、そういう意味では病院慣れはしていた。

 驚いているのは、ただ一点。

「私、生きてたんだ」

 ぷっ、と綾香が吹き出す音が聞こえた。だが、坂下としては、冗談でも何でもなかった。本当に、言葉通りの意味を持って、そう言ったのだ。

 何よりも、吹き出した綾香自身が、そのことを一番理解しているはずなのだ。

 ふうっ、と坂下はため息をついた。その分大きく横隔膜が動き、おかげで身体が痛みを訴えてくるが、坂下は顔をしかめただけでそれを無視する。

「まったく、藤田には感謝しないといけないな」

「……何で浩之に?」

 ふんっ、と坂下は、綾香のことをを鼻で笑った。まったくもって、許し難い存在としか思えないその態度に、しかし、腹はたたない。鼻でわらったのは、単にその白々しい態度が気に喰わなかっただけだ。

「藤田があんたを止めてくれなかったら、今頃、私死んでただろうからね。私でも素直に感謝するよ」

「…………」

 綾香が、黙る。

 やはり、錯覚ではなかったのだ。あのとき、肩が抜けながらも綾香の後ろ回し蹴りを受けた、あのとき感じた綾香の笑いは、実際に笑ったかどうかは分からないが、綾香の態度としては、錯覚ではなかったのだ。

 あの、寒気すら感じる無邪気な笑い。坂下を、殺そうとした、綾香の笑み。

 間違いなく、綾香はあのとき、坂下を壊そうとした。それは、人間という動く物体を完全に動かなくする目的だった。あのまま二撃目の後ろ回し蹴りを受けていれば、首が折れるのか頭の骨が砕けるのかは分からないが、坂下は二度と動けないように壊されていただろう。

 それを遮ったのは、まるでそうなることが分かっていたかのような、浩之の、綾香に対する叫びだった。あれが、僅かばかり、綾香に手加減をさせた。だから、未だ坂下はのんきにというにはあまりにも酷い激痛だが、ベットでしゃべることが出来ているのだ。

 そして、綾香は数瞬ほど間を置いて、答えた。

「あはっ、やっぱり、分かった?」

 邪気などない。いつもの危険過ぎるものと比べれば、よほど悪意は感じられない。誰がどう見ても度を超したSである綾香に邪気がないというのだから、それはそれで異常なのだろうが。

「何か感じたのか私らの戦いに、少しなりともついてきてたのか、どちらにしろ、藤田はやっぱり凄いねえ」

「浩之は私のだからあげないわよ?」

「ぬかせ」

 ぽんぽんっ、と軽快に投げ合う、軽い言葉の掛け合い。内容が平和なものもあれば物騒なものもある。これは確かに、二人のいつもの付き合い方だった。死、という不吉なものがあまりにも近い場所にあったというのに、それに変わりも、陰りもなかった。

「でも、多分浩之の声がなくても、好恵は死ななかったと思うわよ? まさか、最後のあれを身体で受け流すとは思わなかったもの」

「ああ、それはもう本当に記憶にもないねえ」

 首が特に痛いのは、頭に受けた衝撃を、少しでも身体に伝えようと踏ん張った結果でもあるようだ。というか、それは本当にまったく記憶にない。それこそ、身体が坂下の意志をまったく必要とせずに動いたとしか思えない。

「とにかく、私は負けたか。いいところまで行ったと思ったんだけどねえ」

 しかし、勝てなければ、それこそ何の意味もない。善戦しても、届いたことにはならない。綾香の壁は、坂下には手に負えぬほど、高かったということなのだろう。

 それを、綾香は、肯定的に、しかしどこか否定的に答えた。

「ほんと、まさかあんなところまで、好恵が来るとは思わなかったわ」

 悔しさすら、綾香の声からは聞き取ることが出来る。いや、事実、非常に綾香は不機嫌だった。

「あれだけ、私と戦えた人間なんて、今の今まで一人もいなかったわよ。そういう意味では、私と本気で戦って、一番強かったのは、好恵、あんたね」

「……ふん」

 それは、紛れもない。綾香が、嫌々ながら、坂下の強さを認めた言葉だった。

 嬉しくない、とは言わない。坂下だって、綾香だけを見て、今まで突っ走って来たのだ。試合中でもそうだったが、綾香に認められることは、泣き出してしまいそうなほどに嬉しいのだ。

 だが、坂下の鼻息は、照れを隠すような言葉では、なかった。

「でも、負けた」

「そう、私が勝った」

 坂下は、やはりまったくもって無慈悲に、自分の勝ちを言葉にする。

 それでも、いや、もうこんなになっているのだから、そろそろ悟れという話なのだが。

 綾香には、一生勝てない。どれほど坂下が修練したところで、どれほどその一点の為に研ぎ澄まされたとしても、それでも、まったくもって、届かない。

 坂下自身、何が起こっているのか分からない領域まで、まるで生き急ぐように駆け上がったのに、それをさらに綾香は真正面から叩きつぶした。坂下の想像でも、もう限界だった。これ以上、坂下は強くはなれない。いや、今までが異常だっただけの話なのだ。

 いやさ、それでも、だ。

「また、一からやり直しか。次は、勝つよ」

 あきらめなんか、しない。

 勝てない。間違いない事実としてそれが目の前に立ちはだかろうとも、それを坂下自身が経験で得た言葉だったとしても。

 その程度であきらめられるほど、坂下は、聞き分けが良くないのだ。

 身体が治るまで、一体どれほどかかるのか、それどころか後遺症はないのか、と思うような状況でも、ただがむしゃらではなく、しごく当然のこととして、坂下は勝つべく、一歩を踏み出していた。

 

 身体は動かなくとも、心は動かせるのだから。

 前へ、前へと、進むのみ。

 

 その言葉を、まるで待っていたかのように、綾香は、再度吹き出した。

「あははっ、いいわ、それでこそ好恵よ。大丈夫よ、私は、負けないから」

 坂下がどれほど努力しても、綾香に勝てないとも、自分はずっと負けないから、いつでも挑戦して来いとも聞こえる、綾香の、楽しそうな笑い。

「当たり前だ、綾香、あんたを倒すのは、私だ」

 坂下は、楽しそうに、応えた。

 

続く

 

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