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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(441)

 

 「じゃあ、またね」と、綾香は何の躊躇もなく、部屋を出て行く。首を動かせない坂下からは出入り口は見えないが、扉が開いて閉じる小さな音と、消えた気配から、綾香が間違いなく外に出たのを確認して。

 坂下は、白い天井しか見えない目を閉じた。

「……ぐっ」

 そして、唸った。

 痛みが、身体の節々まで侵して来る。これで無事に復帰できるかどうかは、実のところかなり危ないのでは、いや、日常生活にすら障害を負うのではと思えるほどの痛みだ。だが、その痛みが、今の坂下には、どれほども痛くなかった。

 身体を動かすことが出来ずに、低くうなるその姿は、どう友好的に見ても、手負いの獣にしか見えなかった。

 確かに、今の坂下は手負いだ。いや、すでに瀕死と言っていいだろう。手負いの獣は危険だが、今の坂下には、どれほど坂下が強くとも、危険はない。危険になるほどの力を行使することが、今の坂下には出来ない。言葉通り、瀕死なのだ。

 おそらくは、ベットに固定されているのだろう。そうでなくとも骨折した場所などは石膏で固めてあるだろうが、今ならば寝返りをうっただけで激痛が走りそうなのだ。患者のことを考えるのならば、身体を固定しておくのは、むしろ当然だろう。

 だが、それで良かったのかもしれない。もし、今少しでも動けたのならば、坂下は、後先のことなど考えずに、壊れかけた身体を振り回して、まわりに当たり散らしていただろうから。その結果、物が壊れるのか坂下が壊れるのかなど、考えの外で。

 運が良いことに、今の坂下は、正直目と口以外はろくに動くところはない。口の中も酷く切れて痛いが、そんなことが気にならないほど、今の坂下は痛がっていた。

 負けた。

 その事実が、坂下のすでにボロボロな身体の、まだそれでも傷つきこそすれ折れていない心を、これでもかと痛めつける。

 負けた、負けた、負けたのだ!!

 あれだけ身体を痛めつけて、あれだけ強い者と戦って、あれだけ努力して、あれだけ追いつめたというのに、負けたのだ。

 勝った、と思ったのだ。事実、それは間違いではなかったはずなのだ。坂下の拳は、確かに人を破壊した。あの感触を間違う訳がない。坂下はそれこそ、平和な日本でなくとも経験すべきではないほどに、その感触を覚えて来た。物理的に破壊する意味もあるが、どちらかと言えば抽象的な意味を持つ、「壊す」、その感触があって立って来た者など、今まで一人だっていなかったのだ。

 なのに、立ってきた。あまつさえ、坂下の受けが効かないほどの威力を繰り出して来た。

 その後だって、ありえない。坂下が自分ですら制御出来ていない受けで何度もダメージを返したのに、弱るどころか、速度は上がる一方。

 最後の攻防で言えば、間違いなく、坂下は、アスリートが最終的にたどり着くだろう、違う世界にたどり着いていた。全てがゆっくりと見える、そのかわり、残りのものが完全に削られた、表現し辛い世界。

 あの状態で、坂下は、確かに自分でも制御出来ていないはずの受け流しを、自分の意志で行っていた。一瞬すら生ぬるい、チェーンソーの異能の必殺技よりも速い一撃を、まるでそうであることが決まっていたかのように受けていた。

 なのに、だ。綾香は、それをありえないことに、さらに超えてきた。

 受け流せると思った一撃で肩を抜かれ、坂下には受けを行うことは出来なくなった。しかし、それでも、あの状態ならば、坂下の拳の方が先に届くはずだったのに。

 自分が、二撃目の後ろ回し蹴りを受けたのだけは、うっすらと覚えている。まったく受けることなど出来なかった。あのとき、おそらくは肩が抜けておらず、攻撃に移っていなくとも、おそらくは受けることなど出来なかっただろう。

 あれは、何だったのだ。あんな怪物に、勝てる道理など、ない。どんな無理でも、さらなる強い無理の前では、紙屑のように吹き飛ばされるだろう。

 あんな怪物を、私は、知らない。綾香が、あんな強かったなど、私は知らなかった。

 しかし、どれだけ綾香が怪物であっても、言ってしまえば、それだけのこと。

 グダグダと考える、そんな言い訳すらも、坂下を少しも慰めてくれない。

 ただ、ただ一言なのだ。

 負けた。

 それが、坂下の心に、引きちぎれるような痛みを与える。

 相手の強さが分からなければ勝てない、そういう次元の話をしているのではないのだ。もっと低次元の、結果だけが、坂下を責め立てるのだ。

 悔しくて悔しくて、どうかなってしまいそうだった。これほどの激痛に侵された身体のことも、今の坂下の頭の中を少しも占有することはない。もっと痛いものに、坂下の中は真っ白、いや、真っ赤に染め上げられているのだ。

 どうにかなってしまいそうな、しかし、吹き出すことも出来ない気持ちが、坂下の中を焦がす。

 それでも、燃え尽きてしまうのならば、坂下は、今よりよほど平和に生きて行けたのだろうけれど。

 火に油を注いだように、心の中の炎は、真っ赤に、燃え上がっていた。

 人の身では、絶対に届かない。そう頭では冷静に考えているのに、心は、それをまったく問題にすらしない。

 次は、勝つ。

 一度は屈服しようとも、すぐに立ち上がる。坂下の不屈さは、ある意味、それも怪物の領域なのだろう。その怪物相手に、一歩も下がる気がないのだから。

 坂下が、改めて決意を固めたとき。

 バンッ、と明らかに病院にしては大きすぎる音をたてて、扉が開いた。

「ヨシエさんっ!!」「好恵っ!!」「先輩っ!!」「目が覚めたんですね!!」

 飛び込むように部屋に入って来た部活の仲間に、坂下は一瞬で取り囲まれた。部活でもこれぐらいの動きが出来れば、と坂下が思うほどの速さだった。いや、必死だったと言っていいだろう。

「うるざいよ、ここ病院だろ、もっと静かにしな」

 動けないとは言え、後輩を導くのも坂下の勤めだ。拳で分からせることは出来なくとも、口ぐらいは出せる。

「「「「………っ」」」」

 それは、坂下にそう言われたから黙った、という感じではなかった。驚きに、固まったように見えて、坂下は怪訝な顔をした。

「……まあ、好恵らしいって言えばらしいけど、第一声がそれか」

 池田が苦笑して、やっとまわりのものもめいめい動き出す。大きくため息をついて、その場にへたり込む者、涙ぐんで、今にも泣き出しそうな者。部活の人間は、坂下が言うもの何だが個性派揃いだが、それでは説明がつかないほど、リアクションが大きい。

 こちらは、どこか握りたくて仕方ないと言った顔を、今の坂下を握れる場所がないので、何とか自制している御木本が、やはり何とか押さえた声で、言った。

「好恵、お前、一体何日寝てたと思ってるんだ?」

「は?」

「……三日間、お前、目を覚まさなかったんだぜ。心配するこっちの身にもなってみろよ」

 そう言われてみれば、御木本を筆頭に、ランも池田も他の部員達も、酷く疲れた顔をしている。それこそ、ほとんど寝ていないように見える。

「ひぐっ、本当に、もう目を覚まさないかと……」

 半分泣き出しているランの言葉は、坂下にだけは分かるが、重い。確かに、あの綾香を相手にしたのだ。死んでおかしくなかったのだから、このまま目を覚まさない可能性は十分にあった。綾香の怖さの片鱗でも味わったことのあるランならば、本当に冗談では済まない話だ。

「何だ、心配かけたようだね。悪いことしたねえ」

「てめえ、これだけ心配させて、それだけかよ……」

 しかし、それ以上は、御木本は声を出せずに、言葉とは裏腹な嬉しそうな笑顔で、坂下を見ている。正直、坂下としてはこそばゆい。悪い気もしないが、居心地が良い悪いというよりも、心配させたのは素直に悪いと思った。

 ただ、坂下としては、死ななかったのだからそれで十分だろう、とすら思っているのだ。

 いや、もし、綾香との戦いで命を落としていたとしても、坂下は綾香を恨みもしなかっただろうし、心残りもなかった。

 ただし、勝って死ねば、だ。

 これだけの人望を集めても、坂下は勝つことに重きを置く。いや、だからこその人望なのかもしれないが。

「まあ、私だってまだまだ死ぬつもりなんてないよ」

 負けたまま死ぬなど、坂下の趣味ではない。死ぬときは、相手の首を食いちぎって勝ってから、だ。

 しかし、まあまずは、この仲間達の相手をしてやることにした。戦いの合間にそれぐらいのことは苦ではない。それも、ある意味坂下の強さだ。

 負けた坂下は、勝つ為に、また立ち上がり、いつもの生活に戻った。いつか、その不可能を踏破する、その合間というには、いささか居心地のよい場所へ。

 

続く

 

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