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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(442)

 

 空手部の面々が坂下の病室に駆けて行くのを、綾香は後ろ目で見ながら、それに背を向けた。

 坂下は、強いだけではない。ああやって、大くの人から慕われ、信頼を得ている。その点に関して言えば、綾香よりも優れているかもしれない。坂下は強くあっても安心感があるし、何よりも面倒見が良い。

 綾香は、違う。どれほど強くても、いや、強いからこそ、綾香は劇薬なのだ。信頼を得るのは難しくない、その実力を見せれば良いだけだ。上に立つのはさらに簡単だ、力でねじ伏せればいいのだ。だが、慕われるのには、綾香は、あまりにも危機感を覚えさせる。

 檻の中の獣を見る分にはいいが、それが手を出せる場所にいるのに、落ち着けるような人間はいない、つまりそういうことだ。

 だから、綾香は基本的に一人だ。力を見せた相手と親しくするというのは、案外難しいものなのだ。学校の友達相手には、力は当然見せていない。その必要もないし、意味もない。そういう意味では、葵などは例外中の例外なのだ。

 それをうらやましいとは、思わない。そういう状態になれば悪い気はしないのだろうが、それは綾香の望むものの中には含まれていない。それこそ、そういうことは坂下にでもまかせておけばいいのだ。その点であれば、綾香はあっさりと坂下に負けを認めていただろう。

 しかし、結局、戦って勝ったのは、綾香の方だった。それが一番大きいことであり、坂下は一番望むことを失敗した。

 立場が逆には、なりたくなかった。人に慕われて負けるぐらいならば、全て敵にまわして勝つ方が良い。もちろんそれは極論だが、どうしても、というときならば、綾香は迷わず勝つ方を選ぶ。

 例え、それが何かの終わりを告げるものだとしても。

 あこがれの人を、倒してしまった。プライドを、ズタズタに引き裂いてしまった。きっと、二度と消えない傷を作った。綾香の格闘技における最初の勝利の経験が、それを決定付けてしまった。いや、それが原因なのではない。それは、まさに結果であるだけで、それに責はない。

 責があるとすれば、それでも勝てたことを喜んだ、綾香の方にあるのだ。悩まなかった訳ではない。綾香だって最初から最後まで強かった訳でもない。格闘技に比べ、未熟な精神は、それこそ簡単に壊れるものなのだから。

 だが、綾香の心は折れなかった。むしろ、より頑強に、そしてより凶悪になっていった。そして、凶悪になったのは、変化したからではない。ただ、成長してしまったから。

 怪物を、その心に宿して、綾香は生まれて来ていたのだ。

 だから、綾香は勝つ。何があっても勝つ。何を引き替えにしても勝つ。それが当然なのだ。それしかありえないのだ。負ける未来を、綾香は作ろうなどと思わない。まったく思えない、引き替えとかそういうレベルの話ではないのだ。

 勝つ。ずっと、勝つ。当たり前のように。

 いや、勝って必然。偶然は、ない。

 綾香は、何かを思いだしたように、立ち止まった。そして、数秒、そのまま何かを思うように、動かなかった。

 そして、上体がゆっくり揺れたかと思うと、身体から、ふっ、と力が抜けた。

 綾香の身体は傾き、そのまま冷たい床の上に。

 ぼすっ、と倒れようとしていた綾香の身体を、何かが受け止めた。

「無茶すんなよな、綾香」

 慕われることなどない。全てを投げ打ってでも勝つ。それが綾香であり、だからこそ、綾香は一人。誰の力も借りれないが、それは自業自得であり、それをまた常とする。

 だが、そんな綾香を、浩之は優しく抱き留めていた。

「……浩之、ナイスタイミングね」

 綾香は、それこそ浩之がびっくりするほど弱々しい声で、しかし笑いながら言った。

「おいおい、後一歩遅かったら倒れてたんだから、せめて感謝ぐらいしろよな」

「そうね、ありがとう」

「いつもそれだけ素直ならかわいいんだがな」

 珍しく素直に、綾香は感謝の言葉を紡ぎ出す。いや、綾香はそもそも欲求に忠実であるから、素直なのはいつものことなのかもしれない。

 ただ、こうやって浩之の胸の中で力を抜いている綾香は、まるで別人のように弱々しかった。今の姿を見れば、男ならば誰もが心奪われそうだった。それなのに、浩之はむしろ平然としているのだから、そちらの方が不自然なのかもしれない。

「いつだって私はかわいいし綺麗よ」

 そして、こういうセリフは綾香らしいとも言える。虚勢でも何でもなく、事実を冗談めかしても事実として口に出せるだけのものが、綾香にはあるのだから。

「それだけ言えりゃ平気だろ」

 と言いながらも、浩之は優しく綾香の身体を抱き上げる。いわゆるお姫様だっこというやつだ。そして、綾香に有無を言わせずにそのまま歩き出した。いや、綾香も何ら文句を言って来ない。

 目的地は、数歩先、本当にすぐそこだった。浩之は器用に扉を開けると病室に入り、綾香をまるで壊れ物でも扱うかのように、ベットの上に下ろそうとして。

 両腕で、そのまま綾香に捕縛された。

 ここは、今綾香が使っている病室だった。

 綾香が勝った? 確かに、綾香が勝った。自分の身体への負担すら、人間が普通外せないリミッターをあっさり解除して引き出し、神技を使いこなしていた坂下を倒す為に無視して酷使した結果。

 坂下よりは、ましだった。それは意識があり、骨にダメージがなかっただけの違いだ。意識がある分、苦痛は綾香の方が何倍、何十倍も酷いし、骨が折れなかったと言っても、その他のダメージは異常だった。医者が、どうして意識を保っていられるのか不思議に思ったぐらいだ。

 絶対安静。そう医者に強く言われていた。いや、そもそも、痛みで普通は動けないはずなのだ。

 そんな状態で、綾香は坂下が目覚めるのを待っていたのだ。一日目は無理矢理浩之が寝かせたが、二日目からは、それも聞かなくなった。実のところ、坂下が目覚めて一番ほっとしているのは、浩之だった。それは坂下の安否がというよりも、この状態の綾香を見ているのが辛かったからだ。

 浩之を捕縛している両の腕も、いつもの力の十分の一すらないだろう。浩之が力を入れれば簡単に外れるものだろう。ただ、浩之にはその気はないし、それとは関係なく、それでもやはり外せないのでは、と思わせるほどには、綾香の凄さを浩之はその身に染みこんでいた。

 綾香は、黙って浩之の胸に顔をうずめた。浩之の鼻孔に、綾香の髪から、ほのかな、というには強烈に感じる甘い匂いが流れ込んで来る。いつもなら、脳がしびれるような思いをしているのだろうが、今の浩之は、揺れない。

 浩之が揺れないということは、浩之ではない、他の誰かが揺れているということだ。それこそが、浩之の原風景。

 抱き合うような格好で、しばらくその体勢のまま、二人は重なっていた。そして、綾香がやっと口を開く。

「……よかった」

 何が、と浩之は聞かない。浩之だって、綾香のことはそれなりに分かっているつもりだ。だから、黙って、胸だけを貸してやる。

「良かった、好恵を、殺さなくて」

 くぐもった、声。あの綾香が、泣いている?

 綾香は壊す。戦った相手を、躊躇なく壊す。それが戦いだからだ。それが勝ちの結果だからだ。綾香には、それに対する躊躇はない。それこそ、まったくない。壊し、壊されることを覚悟して自分の前に立った、と勝手に決めつける。わがままを通り越して危険なほどに徹底する。

 壊されれば、人は死ぬ。当たり前だ。殺すつもりではなくとも、壊してしまった結果死んでしまえば、殺したということだ。それも綾香は躊躇しない。殺す気はもちろんないが、壊す以上、殺すことは同値にあることを理解している。しかし、それでも、いや、だからこそ躊躇などない。

 だが、間違うなかれ。綾香は、殺したくはないのだ。

 殺したところで、躊躇はないし、後悔もない。その点、どこまで行っても、綾香は怪物だ。それは、平和な日本で培われるはずの、いや、子供のころに海外にいたとしても、不自由ない生活を送れるだけの経済力を持つ現代社会の子供が持つものとしては、明らかに異常だ。

 だが同時に、利己的な思いが、殺したくないと思わせる。それが親友と呼んで良い相手ならば、なおさらのことだ。

 坂下を殺しても、決して綾香は立ち止まらないだろう。それこそ、立ち止まった方が坂下に失礼な話であることを理解はするだろうし、何かの間違いで坂下に恨まれると思っても、やはり立ち止まらないだろう。

 だが、平気かどうか、という話ではあれば、平気などではない。

 友を失いたくはないし、殺したくもない。

 だから、綾香はボロボロの身体を引きずるようにして、坂下の部屋でずっと坂下が目を覚ますのを待っていた。その必死であった姿を、見られれば一瞬で気付かれることを分かっていた。だから、声は無理をして作ったが、姿は見せなかった。

 だが、病室にたどり着くまでは、もたなかった。緊張の糸が切れたというのもあるのだろう。それこそ、綾香だって十分肉体的に限界を通り越しているのだから。

 怪物が安堵するのを、浩之は、まるで子供を守ろうとする獣のように、ただただ優しく抱きしめていた。

 

続く

 

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