パパズバンッ!!!!
目にもとまらぬワンツーから間を置かずに、続けて繰り出された右ハイキックに、木に吊されたサンドバッグが軋みをあげながら、ハイキックを受けた部分から、くの字に折れ曲がる。それでも勢いを殺しきれなかったサンドバッグは、大きく浮き上がり、一呼吸置いて下に落ちた。
スピードのある、見事なコンビネーションだ。速さだけではない、人を打倒するにはここまでの力は必要ないのだから、それを超えているその打撃は、必倒とも言える。
ただ、素人から見れば十分凄い、いや、格闘家から見ても恐ろしいとすら思える打撃であるが、人を倒す為には、ここまでしなくてはいけないのも確かだった。人の身体というのは、脆いようでいて、頑丈でもある。少なくとも、格闘技として試合をしているときの人間の耐久力は明らかにおかしい。
もちろん、それは試合になると頑丈になっている訳ではない。打撃が威力を完全に出せる距離というのは、驚くほど小さく、そこをずらされると、これだけの打撃であっても、とたんに威力が殺されるのだ。試合ともなれば、相手は動くし、こちらも向こうの攻撃を気にしながら攻撃しなければならない。動かないサンドバッグにいくら強力な打撃が打てたとしても、だから格闘技の試合で勝てる訳ではない。
ある意味、最低限の威力なのだ。試合になれば、これだけ完璧に打撃を当てることは出来ない。しかし、完璧な状態で威力が出せないで、不安定な体勢で威力が出せる訳がない。だから、本当に勝ちたいのならば、これぐらいは当然のことだ。
しかし、これだけの打撃を繰り出している人物が、まだ幼さすら見て取れる少女であることが分かって、驚かない者はいまい。
あくまで前提条件、と言っても、それはかなり高いレベルでの戦いでの話だ。つまりは、全国大会、下手をすれば世界大会で当然必要なレベル、と言っていいだろう。こんなか細いとすら言える少女から繰り出される打撃には、とても見えない。
「はあっ、はあっ、はあっ」
ぎしっ、ぎしっ、とまだ揺れるサンドバッグに、葵は身体を預けた。他に人のいない神社の裏で、葵の荒い息だけが響いている。
葵本人にも、一体どれほどの間サンドバッグを打っていたのか分からない。単純に、ただ心肺機能に限界が来たから動きを止めるしかなかっただけだ。葵は、休憩をしようなどという気持ちはまったくなかった。
一心不乱にサンドバッグに向かう姿は、決して前向きなものから来るものではなかった。じっとしてはいられない、人はそれを逃避と言う。葵には、精神的な重圧に耐えかねて無茶をする悪癖があった。浩之が止めてくれてからは、少しは改善されてはいるが、今は、その浩之もいない。
その浩之は、今頃綾香の病室にいるだろう。それも余計に、葵に手を止めさせない理由にもなっていた。
綾香、綾香、そう、来栖川綾香の存在が、葵を不安にさせる。いや、不安などという曖昧なものではない。絶望、とすら呼んだ方が正しいのかもしれない。
今まで、公式の大会では、それこそ一回戦敗退が当然だった。しかし、それは弱いからではない。総合的な力で勝ち負けが決まるのならば、確かにそれは弱いのだろうが、格闘技の力は、葵自身、決して自分が弱いとは思っていなかった。
それどころか、同じ空手道場の中では、綾香と坂下以外、男子にだって負けなしだった。決して小さくもない、いや、県下でももっか最強と言われていた道場だ。その評価の中で、飛び抜けた強さを持つ綾香とそれに継ぐ坂下の次に、葵は高評価を受けて来た。
しかし、あがり症の所為で公式戦では勝てなかった。だから、格闘技関係者でも、葵に目をつけていた者は、同じ道場の中以外にはいなかった。それでも、確かに葵は自分の強さを感じていたし、成長していることを自覚していた。
そして、その勝てなかった一人、坂下に勝って、自分が変わるきっかけを作ってくれた浩之の存在で、葵が自分でも驚くほど、強さは開花した。
エクストリーム予選を一位通過。それがフロックではないことぐらい、葵本人が一番分かっている。まぐれで勝てるような相手には、当たっていない。相手の強さは本物であり、それに勝った自分も、やはり本物だと確信を持たされる。
坂下に勝ったことはかなりまぐれの部分もあったが、着々とそのまぐれも、ちゃんと自分の力になっていっている感覚があった。
今なら、綾香に勝てないまでも、いい勝負に持っていける、と密かに考えていたのだ。
しかし、その思いは、あっさり打ち砕かれた。綾香と坂下の試合によって。
一度は勝った坂下の、急としか言えない成長。もちろん、それまでも強かったし、坂下に勝ったのもまぐれだと思う部分があったぐらいの強さだったが、綾香と戦っているときの坂下の強さは、もうそんな次元の強さではなかった。あのとき戦えば、葵など何も出来ずに負けていただろう。
まるで相手の攻撃の軌道が全て見えるかのような受けの凄さ。おそらく、葵の崩拳が完成しても、当てることすら出来ないだろう。両の腕が前にある状態であれば、葵のどんな攻撃でもその守りを突破することはないだろう。それだけではない、外から見ていても確認出来ない打撃を、受け流し、あろうことか、それで相手が吹き飛ぶのだ。本気で意味が分からない。
しかし、その坂下すら、真っ正面から向かって、真っ正面から壊した綾香には。
正直、寒気しか覚えなかった。
浩之から、確かに聞いてはいた。一度だけ、綾香がその力を使ったところを浩之に教えてもらったことがあった。「三眼」とか言っただろうか?
正直、浩之からの言葉でも、話半分に聞いていた部分があった。綾香の強さは十分心得ていたので、素人に近い浩之が見れば、それこそ鬼神のように強く見えてもおかしくないと思っていたのだ。事実、浩之から聞ける内容であれば、いつもの綾香でも出来ると思っていた。
だが、そんな簡単なものでは、なかった。確かに話は聞いていた。しかし、そういうレベルの話だとは、思っていなかった。
あんなのに、勝てる訳がない。
坂下は、あれを見てもあきらめなかった。それだけでも十二分に尊敬に値する。葵は、見ただけであっさりと膝を屈したのだから。
勝てる勝てないの次元の話にすらならない。あんな怪物、今まで見たことがない。格闘技の世界には、「怪物」は確かに多いし、葵だってそんな「怪物」を綾香以外にも見たこともあるが。
その「怪物」達は、やはり人だった。あの綾香こそ、本物の怪物だ。
葵の最終目標は、綾香に勝つことだ。エクストリーム自体もレベルの高い大会だとは思っているが、それも含めて、あくまで綾香が出るからエクストリームに出ようと葵は考えたのだ。いつか、綾香に追いつく為に。
そういう意味では、坂下よりも、「勝つ」という部分は大きくないのかもしれない。あこがれに近いそれは、近づきたいという思いの方が大きいのかもしれない。
しかし、そうやってレベルを下げたところで、到底。
「綾香さんに、追いつく……」
葵は、吐き気を覚えて、口を押さえた。疲労の所為ではない。言葉に出すだけで、身体がそれを拒絶する。あんなものと戦うな、と訴えかけてくる。
あれと戦えば、間違いなく負ける。いや、それだけならばいい、死んでもおかしくない。実際、坂下は目を覚まさない。それを責める気は、葵にはない。本気で二人が戦った結果ならば、むしろ大人しい結果とすら感じていた。
しかし、それが自分であれば?
覚悟は、あると思う。もちろん死にたくもないし痛い思いもしたくないが、格闘技をする以上、いつか致命傷となる怪我を負ってしまうことは可能性的には否定できないし、その覚悟は葵だっていつも持っている。
だが、その可能性は、いついかなるときもその緊張で神経をやられるほどには、大きくない。怪我など、するときは普通の生活をおくっていてもするものだ。
もし、このまま、自分が強くなったのならば。慢心を持って言わせてもらえば、葵は、いつか自分は到達する、と確信していた。坂下が片足以上も到達していたような、格闘技の粋に。あるいは、もっと先に。
そして、その結果待つものを、葵は簡単に想像出来る。
勝利、ではない。怪物の、本気を出させてしまう。
あの怪物を倒せるだけの強さ、それがないのならば、単に怪物を本気にさせてしまうだけだ。ああ、普通の綾香を超えることは出来るかもしれない。人の身であれば、天才は超えられない壁ではない、と坂下が証明した。
そして、くしくも同時に、怪物を超えられないことも、証明してしまった。
目に見えるようだった。打撃を修めた自分が、無惨にも怪物の一撃で吹き飛ぶ姿が。
考えるだけで、足が震えた。それは、疲労の所為もあった。それ以外の理由が大きすぎて、そんなものは関係ないとしてもだ。
怖い、本気で怖いのだ。
身の危険とかどうとかすら無視して、葵は、怖いと思ってしまった。いつだって綾香のことを怖くないとは言えなかったが、それでも、それとは別の次元で、怖い。
いっそ、折れてしまえば。何も見ずに、後ろを向いて一目散に逃げてしまえば。エクストリームなど辞退して、格闘技から離れて、普通の女子高生として生きていけたのならば、どれほど。
どれほど、世界はつまらないだろう。
身の危険と、楽しい楽しくないは、結局のところ、重さとして、つり合う。
もう、どれほどの怪我をしても、それこそ四肢が動かなくなっても、もう格闘技から抜けることなど出来ない。葵の身に、それは完全に染みこんでいた。試しに抜いてみれば、案外うまくいくのかもしれないが、その辛くて苦しくて痛くて怖いことが、どうしても止められない。
格闘技は、葵の全てだった。怖いからと言って、誰しも自分自身を捨てられる訳ではないのだ。
そして、何よりも。
「葵ちゃん、また無茶してたのか?」
聞き様によっては、ぶっきらぼうにも聞こえる言葉。しかし、その中にある優しさを、葵は、誰よりも理解しているつもりだった。
「センパイ……」
葵が振り返ると、何より、葵が捨てることが出来なくなった理由の人物が、そこには立っていた。
続く