作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(444)

 

「よかった、好恵さん、目を覚ましたんですね」

 浩之から、坂下の意識が戻ったことを聞いた葵は、本当にほっとした顔になった。実際、先ほどの、危ないとしか言えない精神状態だったものが、それだけで、葵の気持ちはだいぶ落ち着いた。それだけ、というのは酷いか。下手をすれば、本当にずっと目を覚まさなかったかもしれないのだ。

「ああ、綾香の方も、やっと安静にしてくれたよ」

「綾香さんも?」

 葵は、病室にこそ行っていないが、綾香も短期間は入院しているはずだった。それは、あれだけの動きをしたのもあるだろうが、坂下の攻撃は、確実に当たっているのだ。短期間で済む方が信じられないぐらいだ。

「さすがの綾香も、心配だったんだろう」

 いや、それどころか、ずっとつきっきりだったのだ。いくら綾香が怪物じみて、いや、怪物であろうとも、限界は来る。今は病室で熟睡しているところだ。ただ、その部分に関しては、浩之は言葉を濁した。綾香が、自分が弱っているところを葵に知られるのを良しとするとは思えなかったからだ。

「ま、どっちも落ち着いて万々歳だ」

「……そういうセンパイも、疲れているように見えますね」

 いつもの、どこかやる気なさげな顔は変わらないが、明らかに、顔色が悪い。葵ももうそこそこの付き合いだ。その程度は分かる。特に、このセンパイという人間は、どこか自分のことよりも他人を、いや、他人のことなのに、それを自分のことと受け取ってしまう悪癖があることは理解していた。それで、葵は一度助けてもらっているのだから。

 だから、悪癖とは呼ばずに、美点というべきなのだろうが、葵は、浩之の負担になるようなことを美点と言いたくはなかった。例えそれが、自分が浩之を好きになった理由だとしてもだ。

「ま、俺も坂下のことは心配だったしな」

 浩之は、当たり前のように言う。自分がこの三日間寝ていないことを、薄々は葵に気付かれているとは分かっているが、それを口にするような男ではない。

 綾香がずっと坂下を見ていたように、浩之も、その綾香と、目覚めない坂下を見守っていた。本当に限界ならば、何としてでも綾香を寝させるつもりだった。坂下のことも、もちろん心配だったが、坂下にしてやれることは、浩之にはなかった。だったら、綾香に対してどうにかするしかなかった。

 試合をしていない分、綾香よりはよほど余裕があったが、少なくとも、三日寝ないで普通の人間はまともに動けない。途中でうとうとはしているので、そういう意味では完全な三徹とは言えないが、睡眠時間が一日分にもなってないこの状況で、わざわざここに来る神経を疑うべきであろう。

「というか、葵ちゃんが無茶してないか気になって眠れなかった訳だけど……案の定みたいだったし」

「う……し、心配してもらって、ありがとうございます」

 浩之の冗談にも似た言葉に、カァッと顔が赤くなるのを、葵は自覚した。がんばっても抑えられるようなものではない。

 実際に、かなり無茶していたのは間違いない。それこそ、坂下との試合を控えたときよりも酷いかもしれない。未だしゃべることが出来るのは、ひとえにそれだけ葵が成長した所為なのだが、無茶をしているのには変わりない。

 図星をつかれて恥ずかしかったのも、顔が赤くなった理由の一つだが。

 間違いなく、体力の限界が近そうな浩之が、自分を心配して来てくれたことが、嬉しかったのだ。それこそ、顔が赤くなるほどに。もっと良い雰囲気で言われれば、思わず涙ぐんでしまったかもしれない。我慢出来ずに、その胸に飛び込んでしまったかもしれない。浩之の方はそれにはまったく気付いている様子はないが、葵は浩之のことが好きなのだから、優しくされて嬉しくない訳がない。

 ただ、今は、雰囲気はともかく、状況が悪い。

 多分、浩之は、何も用事がなくとも、来てくれただろうことに疑いはない。葵には精神的に追いつめられると、不安を身体を動かすことによって無理矢理勘がないようにするという前科があり、今回は不安などという軽いものではない、言ってしまえば恐怖と言っていいものだ。おそらくは、深刻度という意味で一番問題のあった坂下の状態が回復したのならば、葵の精神状態が思わしくないことに気付いた浩之が来ない理由がない。

 まあ、そんな理由がなくとも、家に電話して葵が捕まらなかったのならば、坂下の無事を伝えに来ることぐらいは絶対にしてくれる人ではある。

 しかし、今日ここに浩之が来た理由は、そういう浩之の優しさだけでは、ないのだろう。

 それでも、その優しさは優しさとして、葵はちゃんと心に受け取った。浩之が別の理由で来ていようが、浩之の優しさがないがしろにされる訳ではないのだ。浩之が言い難いのならば、葵が先に切り出せばいいだけだ。

「それで、どうして今日は?」

「……ああ、今、このときだけは、邪魔が入らないからな」

 それでぴんと来た。邪魔、というのは言葉のあやだろうが、どうしても聞かせたくない相手は、油断出来ない怪物で、それこそ病院にいる今しかチャンスがないということなのに、葵はすぐに気付いた。

 というよりも、この二人で、その人の話以外が出るとは思えない。悲しいことに、誰でもない二人の話は、今は話されない。

「分かってます、綾香さんのこと、ですよね?」

 好きな人から、自分ではない女の子の名前が出るのは、正直葵でも堪える。しかし、同時に、その名前を口にしただけで、言い様のない感情が内に湧き出るのも事実。もちろん、恋ではない。しかし、もし葵が男ならば、それは恋に変わっていただろうか?

 強い、それこそ人生を左右してしまうほどの憧れと、それを塗りつぶすような、恐怖。

 人の手を離れ格闘家の域を抜き去り、違う道理すら持っているのかどうか疑いたくなるような、怪物。

「……なあ、葵ちゃんは、どうだ?」

 葵の名前以外、何ら具体的なもののない浩之の言葉。質問というのすら危ぶまれる、どうとでも取れるし、どうとでも返せるようなものだ。もう少し日本語を勉強すべきだと思うような内容だが、しかし、葵に間違う要素はなかった。

 無理です。

 浩之は、問うた。葵が、綾香に勝つことが出来るか。もう少し弱い意味でも、戦うことが出来るか。あの綾香に。あの、怪物に。

 無理に決まっている。今の葵ならば、目の前に立てば一秒もかからずに倒される。攻撃する意志があろうとなかろうと関係ない。あの怪物の放つ飛び後ろ回し蹴りを回避出来る可能性を、一つも思い付かないのだから。偶然でも、それこそ奇跡でも駄目だろう。

 センパイも、悩んでいるんだ。私と、同じ理由で。

 お互いに、本当に勝ちたい相手。人生の最終目標と言ってもいい。おそらく、勝ったとしても、もっと先はあるのだろうが、それが見えないほどに、その目標は高かった。目標にする人が強い、それ自体はむしろ誇りのようなものだ。

 だが、その目標は、あっさりと到達不可能な域に入った。上を見上げても、姿すら見えない。ほんの少し前までは、影ぐらい踏めていると思っていたのに、まるで幻のように姿を消したのに。

 強さだけが、目の前で繰り広げられた。

 勝てる訳がない。それのどこにも、勝てる要素がない。いや、それどころか、恐怖で、戦うことすら否定しようとする葵がいた。

 しかし、それは何も恥ずかしいものではない。出来ないことを形だけ目指して死ぬのと、現実を見てあきらめるの。どちらだって最善ではないかもしれないが、どんな対応をしたところで、不可能は、やはり不可能なのだ。

 認めてしまえば、簡単なものだった。勝てない、それどころか、戦うことすら、したくない。

 自分が折れる音を、葵は聞いたような気がした。しかし、誰がそれを責められるだろうか。人の身で出来もしないことを出来ると言い張って、それで格好いいとでも言うつもりだろうか。まわりが見えないことが、勇ましいというのだろうか?

 どちらかと言えば、まわりを見ずに真っ直ぐに進む葵だが、気付いてしまえば、脚は止まる。葵は、決して度胸も勇気もある方ではない。だからこそ、浩之の助けが必要で、それに葵は何よりも感謝したのだ。

 だから、という訳ではないが、葵は、自分にけじめをつけるべく、声を出そうとした。

「無……」

 言おうとして、のどが、詰まった。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む