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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(445)

 

「無……」

 喉が、つまった。

 葵は、喉を押さえた。考えてみれば、水分補給もせずに身体を動かし続けていたので、喉がカラカラだった。十分な水分補給は、スポーツには欠かせないことだ。根性で鍛えられるものももちろんあるが、そうでないものだって多いし、日射病や熱射病になったのでは、それこそ練習の意味がなくなってしまう。

 ただ、飲み物も用意していなかった葵は、つばを飲み込む。

「ほら、葵ちゃん」

「あ、ありがとうございます」

 浩之は、まるでこちらの心を読んだかのように、スポーツドリンクのペットボトルを渡してくれた。普通は粉のスポーツドリンクを薄くしたものを飲んでいるのだが、これほど激しい運動を続けた後ならば、普通のスポーツドリンクの糖分はむしろ正しいかもしれない。

 葵は、ペットボトルの蓋を開けながら、少し嬉しい気持ちになっていた。浩之が葵の心を読んだのもあるかもしれないが、心を読んだだけでは、ペットボトルを持ち出すことは出来ない、葵が飲み物を用意していないかもと思って、もとから買って来てくれていたのだ。そういう心遣いが、素直に嬉しかった。

 五百ミリのペットボトルのスポーツドリンクを、葵はほとんど一気に飲み干した。自分では気付かなかったが、思う以上に喉がかわいていたようだ。全部飲み干してから、ふう、と葵は大きく一息ついた。

 良し、喉がうるおった。センパイの言葉に答えよう。

 無理だと、あきらめると。

「……」

 口を開いても、どんな言葉にもならなかった。まるで、言葉を忘れたかのように、声が出ない。

 もう、喉は潤ったはずだ。乾きという意味では、まだ全然足りてはいないが、ただしゃべる分には、十分事足りている。いや、そもそも、葵は先ほどまで、そして先ほども、浩之と普通に話をしていたではないか。

 それでも、声は出ない。浩之は、何を言うでもなく、別の反応をするでもなく、辛抱強く葵が何か言うのを待っている。待たせていると思うと、余計に言わないとと思うのだが、どれほど焦っても、まったく声が出ない。

 もしかして、自分は本当に言葉を忘れてしまったのか、とすら葵は思った。だから、何でもいいから口にしてみる。

「センパイ」

「ん?」

「……」

 それ以上何も言えなかったのは、今回はわざとだった。葵にだって自覚がある。というか、何でもいいといいながら、葵は浩之を呼び、そのままの勢いで、自分の気持ちを口にしようとしていたのだ。とっさというのは恐ろしいものである。ぎりぎりで思いとどまったが、後一瞬でも遅かったら、言ってしまったかもしれない。

 ただ、葵にも、正直そんな勇気はない。言えない、というのならばもちろん言えないのだが、あくまで、自分の意志でだ。

 同じように、確かに言いづらい言葉かもしれないが、綾香と戦うのをあきらめることを口にするのは、難しいことではないようにすら思えた。言えば楽になるのだ。それで壊れるものはおそらく何もない。別にそのままエクストリームに出たっていいのだ。綾香と戦う可能性は、実のところ低い。綾香以外にも葵の勝てない選手は沢山いるだろうし、もしクジ運で綾香にあたったとしても、今の葵では、あの怪物を出すほどまで追いつめることは出来ない。人の身である綾香ですら倒せる自信もないのだ。

 つい前までは、葵自身、何度もまだ勝てないと口にしていた。実力的に言って、綾香と自分の差は大きすぎたからだ。その差は、確かに今まで詰まって来ているような気はしているが、それでも、勝てるというのはまだ遠かった。

 それなのに、あの怪物を見て、それで何故。

 勝てないことを、認めたくない。いや、それはもう認める認めない話ではなく、無理であるのだ。しかし、それを認めたくない自分がいることを、葵は自覚した。

 その思いが強すぎて、言葉にすら出せないのだ。ただ、口にするだけでも、嫌なのだ。

 分かっている、あの怪物を見てしまったら、もう中途半端なことは出来ない。冗談で口にしたとしても、その瞬間に折れる。そして、冗談でもなくそう思っているのだから、折れるのは当然なのだ。

 もう、認めなくてはなるまい。葵は、あの怪物相手に、折れたくないのだ。あの怪物を。

「無……無理……でも、勝ちたい、ですっ!!」

 ああ、言ってしまった。はっきりと言ってしまった。これで、引き返せない。

 後悔にも似た思いが、葵の中に溢れる。しかし、だからと言って、それ以外には選択肢などなかった。

 あきらめることなんて、出来ない。だって、ずっと目指して来たのだから。無理だかと言って、今更降りることなんて出来ない。ただあきらめるのならば、現実逃避にしたって、サンドバッグをずっと殴っていたりなんかしない。

「そっか」

 浩之は、にこりと笑う。その笑顔に、思わず葵はどきりとした。

「ちょっと安心したよ」

「安心、ですか?」

 あの怪物と戦おうとする後輩に、安心も何もないような気もするのだが。というか、もし葵のことを心配するのならば、浩之は必死になって止めるべきではないのだろうか。葵の気持ちをくんだとしても、相手が悪すぎる。

「ああ、安心した。俺以外にも、そんなバカをしようなんて子がいるんだからな」

「バ……」

 確かにバカだ、それ以外言い様がない。浩之は、実に正しいことを言ったのだ。それに、どこかすっきりとした浩之の顔を見て、葵はほっとしていた。優しさはいつも通りだったが、今までの浩之には、どこか張りつめたものを感じていたからだ。

「俺も、あきらめたりなんかしない。絶対に、綾香に、勝つ」

 そして、一瞬だけ、その張りつめたものを、浩之は吐き出した。その表情に、葵はまた胸の高鳴りを覚える。

 ただ、間違いなく、浩之ははっきりと、自分の思いを宣言した。

 その顔は一瞬のことで、浩之はすぐに気が抜けたように、そこに寝ころんだ。

「ああ、安心して気が抜けたら、何か眠くなって……」

「……センパイ?」

「日が暮れるころには……起こして……」

 浩之は、目をつむったまま黙ってしまった。

「……センパイ、まさか、寝てしまったんですか?」

 返事は、なかった。変わりに、規則正しい吐息が、気の早い蝉の声に隠れるように聞こえてくる。

 それはそうだった。いくら浩之がタフだと言っても、もう三日間もろくな睡眠を取っていなかったのだ。その後綾香の様子を見てから、安心出来て初めて病室を出て、休憩も入れずにここまで来たのだ。体力も気力も限界のはずだった。

 葵は、きょろきょろと辺りを見渡す。当たり前だが、ここに来る人はいない。坂下と綾香が病院にいる以上、他の人が来る可能性は皆無だった。

 葵は、そっと動くと、寝ころんだ浩之に近づき、おもむろに浩之の頭の方に座ると、浩之を起こさないように慎重に、自分の太ももの上に、浩之の頭を乗せた。

 浩之はされるがまま、起きる気配は、まったく見せない。

 誰も来ない、二人だけの時間。そらくは、こんな時間はほとんどなくなるだろうことは、葵も理解していたし、それを残念に思う自分の気持ちにも気付いていた。

 だから、この僅かばかりの幸福な時間を、存分に。

 葵は、ただじっと浩之の顔を見ながら、ただ日がゆっくりと暮れることだけを祈っていた。

 

続く

 

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