「綾香に勝つ方法を、教えてくれ」
綾香に、勝つ方法、だぁ?
浩之の突拍子もない言葉に、坂下は、しばらくあっけに取られて、思い出したように、笑ってしまった。
「は、は、は、いたたたたっ」
そして、笑うだけでも身体にけっこうな痛みが走って、思わず声をあげてしまう。身体全体が尋常でない痛み方をしているのだ。ただ笑っただけなのに、引きつるような痛みと鈍い痛みが両方攻めて来る。痛みぐらい、別にじっとしていても十分に感じているが、しかし、ある意味浩之に隙を突かれた。
「てめえ、好恵になんてことしやがんだっ!!」
「ちょ、今のは不可抗力だろ!!」
「ヨ、ヨシエさん、大丈夫ですか?!」
まさに言いがかりのように浩之に突っかかる心配性の御木本と、さすがに御木本を撃退する訳にもいかず対処に困る浩之と、そんな二人の喜劇を放っておいて本当に坂下の身を心配するラン、で、笑いすぎて引きつりを起こしたような格好になっている坂下。実にカオスな状況だった。
しばらく、そんなどうしようもない状況が、時間によって解決するまでしばらくの時を要した。
「……で、藤田。笑わせるのもいい加減にしときなよ」
何とか体勢を立て直した、と言っても相変わらず動けないのでベットに寝たままではあるが、迫力のある声で、坂下は浩之を睨む。
笑わされて痛かったことを恨む気はない。浩之には悪気はなかったのだし、そもそも笑ってしまったのは自分の所為だ。それに、たかがそんなことを恨みに持つような懐の狭い坂下ではない。しかし、睨むのを止めることは出来なかった。もちろん、別の理由で、だ。
「私は、綾香に負けたんだよ」
ずきりっ、と先ほどの痛みなど比較にならないほどの痛みを、胸に感じた。むしろ、音として出すのならば、ざくりっ、と言った方が妥当だろう。それほどに、それは深く坂下の胸に突き立てられているのだ。しかも、それを自分でしなければならない苦痛たるや。
しかし、坂下は、痛みを口で訴えたりしない。笑ったことによって痛いととっさに口にしていても、もっともっと、比較にならないほどの痛みを覚えたからこそ、言葉には出さない。出せない訳ではない。許されることならば、叫んでまわりのもの何もかもを壊してしまいたいほどだ。
だが、それを良しとしない坂下の気持ちの方が、遙かに大きい。強いというのは、弱い部分を持たないということではなく、自分の弱いものすら飲み込むことが出来ることを言うのだ。少なくとも、この坂下は、それを満たしている。だから強いという訳ではないが、確かに、強い。
そんな、遙かに強い坂下が、負けを認めた相手に、勝つ方法など。そんなことを言う浩之に、それでも恨みに思うことがないだけでも、坂下の人間はかなり出来ていると言って良い。ただ、もし浩之が同士でなければ、その限りではなかっただろうが。
「そんなものがあるんなら、私が教えて欲しいぐらいだよ」
浩之が、ふざけているとは、もちろん坂下だって思っていない。言ったように、浩之は、坂下の同士だ。ライバル同士と言ってもいいかもしれない。同じものを目指す一人なのだ。この同士には、葵もいるし、おそらくは、まだまだ世の中には沢山いるだろう。綾香には、それだけのものがある。
浩之の言葉が、勝っていない坂下への聞き方としては、あまり上等なものではないのも確かだ。挑発していると受け取られても仕方ない。もちろん、坂下はそんな風には考えなかったが、それでも、思考は一時的に止まってしまった。
ほんの少しの間ではあるが、浩之の目的を考えようとしなかったのだ。
浩之は、まるでそんな坂下の隙を突くように、ゆるりと懐に入ってくる。
「俺が、あの綾香を見たのは、二度目だ」
「……あんなもの、二度出るのか」
それだけでも、もう脅威としか言い様がない。あそこまで綾香を追いつめるのに二回成功したと言えばなかなか素晴らしようにも聞こえるが、しかし、だからこそ、坂下はその問題から一瞬気付かなかった。だが、さすがにそれは数秒も持たなかった。
「って、綾香が、そこまで追いつめられたのかい?!」
はっきり勝ったと感じた、そこまで行ったからこそ、あの怪物は頭をもたげたのだ。でなければ、眠ったまま、出てくることなどない。つまりは、綾香をそこまで追いつめた人間が、坂下以外にいるというこで、その当たり前のことに、坂下は驚くしかなかった。
「ああ、俺の兄弟子、武原修治だ」
初めて二人が顔を合わせた日に、二人は激突し、修治はあわやというところまで、綾香を追いつめた。そして、浩之は考えられないほどの強さを見たのだ。
坂下も、一応顔だけならば、エクストリーム予選で見ている。綾香と対等だ、とも聞いたし、試合を見る限り、それもあながち嘘ではないと思っていた。
「しかし、綾香を追いつめるほどだったとは……」
坂下が激闘の末にたどり着いた域に、すでに修治はいたということだ。衰えていないのならば、未だいるということだ。もしかすれば、ここまで怪我をしてしまった坂下よりも、先にいるかもしれない。
「俺は今回も併せて、二回、綾香のあの姿を見ている」
しかし、実際のところ、一回目の強さは、正直浩之では測れなかった。二人が決着をつける前に、雄三が邪魔をしたからというのも、もちろんあるのだが。それを差し引いても、あそこまで簡単に綾香を追いつめた修治の実力も、その修治をまるで相手にしない綾香の強さも、正直に言えばあのときはよく分からなかった。
上を見上げるのすら、実力が必要なのを知ったのは、そこそこ強くなった、と自分で思ってからだ。さらに先があるのだと、強くなったからこそ自覚させられてしまう。今までの浩之ならば、そこで満足して止めていたかもしれない。
浩之の才能は、本物だ。それは誰しもが認めるところ。下手をすれば、浩之本人よりもまわりの方が認めているかもしれない。
しかし、その浩之が本気になったのは、才能の所為でも何でもなく、ただ綾香の存在があるだけだ。他の理由は、その付随に過ぎない。
そう、浩之は、本気だった。だから、手段を選ぶつもりは、なかった。
「そして、今回、坂下は綾香のあれを呼び出した。そして、戦った」
及ばなかったとはいえ、それは何にも代え難い財産だった。何も出来ずに負けたとしても、大小の差こそあれ、経験とはなるのだ。まあ、その代償がこの怪我だとすれば、それが効率が良いかどうかは微妙であろう。
が、代え難い、という意味では、まさに代え難い。何故ならば、あの綾香と戦う場面まで状況を持って行く自体が、まず不可能だからだ。
その貴重な宝石とも言えるものを、浩之は、横からかすめ取ろうとしていた。言ったように、手段は選ばないのだ。
「二人の見ていたものと、感じたもの、経験したものを合わせれば、そこそこの情報になるんじゃないのか? それこそ、綾香を倒せるほどのものに」
相手を知る、ということは、非常に大きい。普通なら目の追いつかないようなものでも、何度も見て、タイミングを覚えてしまえば、案外簡単に攻略できてしまったりする。だからこそ、経験というのは代え難いものなのだ。
「無理だよ、そんな簡単なものじゃない。あの怪物に、理が通じるなんて思わない方がいい」
それは、坂下の経験からの言葉だったが、本心ではなかった。とっさに答えたし、その言葉自体には嘘はない。というよりも、そんなもの、ただ見ていただけの浩之だって気付きそうなものだ。なのに、浩之は、まるでそれを無視して、続ける。
「本当に、そうか?」
「……」
しかし、浩之は、坂下を惑わす。
「理で勝てないとしても、理で攻めない理由には、ならないんじゃないのか?」
「それは……」
坂下も、理解はしているのだ。理では、勝てない。あれを倒すためには、圧倒的な強さでしか、無理だ。それが証拠に、技の極地で戦った坂下は、ただ試合を延ばすほどのことしか出来なかった。
それでも、もしかして、という思いは、坂下にもある。それほど、祐之の言葉は、坂下の耳に甘美だった。
「俺とお前は、ライバルみたいなもんだ。先に綾香を倒したいのは、どっちも一緒だろ。手を組む、というのは抵抗があるかもしれないが、一筋縄じゃなくたって、かなう相手じゃない。だったら、出来ることは全てやっておくべきじゃないか?」
浩之がここに来た理由は、ただ一つ。綾香を倒す方法を、探る為だ。その為に、坂下の経験を、かすめ取る。
浩之からも、もちろん出せるだけの情報提供はする。そこを渋ったところで意味はない。浩之が気付けないことでも、坂下ならば気付くかもしれないのだ。そうやって二人でものを出し合えば、僅かながらでも、結果として出るかもしれない。
どう見ても、共闘だった。かすめ取るなどという言葉が入る部分はないように見える。
しかし、そうではないのだ。
二人で話し合い、研究したとしても、実戦で、綾香相手に試せるのは、一人だけ。一度使われれば、どんな作戦であろうとも、綾香にはもう通じないだろう。だから、二人で作り上げたとしても、その実をかじれるのは、一人だけなのだ。
順当に言って、次に戦うことになるのは、坂下ではない。坂下の負傷は酷い。完全に治り、そして実力を取り戻す為には、一年どころか、それ以上かかるかもしれない。二度とあの強さは戻らないかもしれない。
そして、坂下には、他人にそれを託す気など、まったくない。
だが、そこまで理解していたとしても、坂下にとって、浩之が見て来たものは、重要だ。もしかしたら、綾香に対抗出来るものが生まれるかもしれないと思えば、突っぱねることは出来ない。
実際、浩之では、怪物を呼び出すことが出来ない公算は高い。まさか、負けた腹いせに、浩之が坂下と考えた策を綾香に話すとは考えられない。であれば、あの怪物相手に使えるのは、坂下かもしれないのだ。いや、むしろ坂下である可能性の方が明らかに高い。
そう思った以上、もう、坂下は断れない。勝つ為にならば、坂下だって何だってするのだ。自分の身一つで戦うのならば、浩之と意見を交換するのは何ら躊躇する理由はない。
「……わかった」
熟考したように、しかし、結局のところ、坂下には受け入れるしかなかった。それを、浩之は表情に出さずに、頷いた。
続く