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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(8)

 

 葵は、言葉通りてんぱっていた。

 てんぱる:麻雀で、後一つそろえばあがれる状態をてん牌といい、その動詞化。転じて、全ての準備が整うこと。または目一杯の状態であること。

 葵の今の状態は、もちろんぶっちぎりで最後の意味だ。葵の中で、完全に一杯一杯、今にも溺れそうな状態になっている。いや、実際溺れているのかもしれない。

 葵は、少なくとも目的の為に手段を選ばない子ではない。むしろ反対で、手段が正当でないのならば、目的の方をどうかしてしまうほどに融通の利かないところがある。それは葵の美点でもあり欠点でもあるが、こればっかりは、葵自身ではどうにもならない。そういう性分なのだ。

 女性というのは、男が思っている以上に現実的で損得勘定で動いているのだが、葵に関して言えば、それは当てはまらない。綾香という目標に一直線に向かおうとしている葵は、どちらかと言うと男性的なのだ。

 まあ、その部分が葵にかわいらしさをもたらせているのは否定出来ない。男の方が、性欲に流されるのでそうは見えないが、実際のところ女性よりもかなりロマンチストであり、男性が夢見る女の子像、というものに、だからこそ男性的である葵は近いのだ。

 だから、葵は色仕掛け、などという手段を、考えもしていなかった。そういうことを少しも考えないなどということはない、少なくとも葵も年頃の女の子で、そういうことには興味はある、が、それを手段というものに転化するには、性格的にも経験的にも全てが足りなかった。

 葵のブルマ姿はけっこう男にとっては目に毒なのだが、葵にはそのつもりはないし、もちろん浩之を誘惑している気持ちなどない。そして、海で水着になるのは、まだ理解できるし、それを見せるのも、恥ずかしくないとは言わないが、道理にかなっているものだ。運動系の部活で体操着、夏の海で水着、何の問題もない。

 だが、浩之に選んでいる水着を試着して見せるというのは、明らかに葵の道理から外れている。そして何より、葵自身がもの凄く恥ずかしい。

 浩之の読みは、外れていなかった。そのままであれば、葵だって浩之を連れて行くことには賛成しなかっただろう。

 水着売り場に一緒に行くのは、少しは恥ずかしいが、まだ許せた。言ったように、ここは男子禁制であるが、それは女性が隠さなければならないからではなく、男性が生存出来る環境ではないからであって、葵は別段苦しくないのだ。そう考えると、葵もちょっと酷い。

 そう、綾香から、言われるまでは。

 浩之なんて、葵の水着姿でいちころよ。

 一発で、強固であるはずの葵の土台が揺らいだ。そして、強固であるからこそ、一度揺れると脆い。ましてや、綾香の使って来た言葉は、まさしく容赦なしだ。

 ここから、あのとき交わされた二人の会話を拾ってみよう。プライバシー保護のように見せ掛ける為、誰の発言かは伏せておく。

 

 え、でも、それって良くないことだと思います。そんな、色仕掛けなんて……

 何言ってるのよ。せっかく持って生まれた可愛い容姿をここで使わないでどこで使うのよ。

 つ、使う必要はないと思うんですが……

 そんなこと言ってたら、すぐに容姿なんて衰えるわよ。まあ、身体の方は鍛えてるから、そう簡単には落ちたりはしないと思うけど、それだって限界はあるわよ。せっかくある強さは、あるときに使わないと意味がないでしょ?

 それは、格闘技でもそうですけど。やっぱり年齢は最大の敵ですから。

 そう、格闘技と同じよ。これは言わば戦いなのよ。浩之と葵との戦い、それは間違いないでしょ?

 た、戦いですか?

 考えてもみなさいよ。自分が一生懸命選んだちょっと大胆な水着を買ったとするわよ?

 大胆な水着は選ぶつもりはないんですけど……

 そこは聞き流しときなさい。で、恥ずかしがりながら、それでも勇気を出して着て浩之の前に出たときに、まったくいつもと同じ態度、紳士に振る舞う為に我慢しているのかと思えば、視線だってちらりとも水着姿の方に動かなかったら、どう思う?

 どう思うと言われると……それは、まあ、少し悲しいかも……

 私なら浩之を殺すわ。

 殺すんですか?!

 おっと、言葉のあやよ、言葉のあや。まあ本気だけど。

 綾香さんの怖さを再確認しました。でも、確かに、悲しいですね。エッチなのは駄目ですけど、やっぱり、全然見られないというのは。

 でしょ? だったら、どういう攻撃、まあこの場合は浩之の趣味だけど、が有効なのか、事前に調べておくのはむしろ当然じゃない。

 そう……でしょうか?

 じゃあ、何? 葵、負けたいの? 浩之に一瞥もされないでいいの?

 ……負けたくありません。勝ちたいです。センパイに相手にもされないのは、確かに悲しいです。

 だったら、やることは一つじゃない。

 わ、わかりました。そうです、勝つ為の努力を怠っては、勝てるものも勝てません。私が間違ってました。勝つ為に、最大の努力をすべきです!

 そうよ、葵、その意気よ!

 はい! やるからには、全力を尽くします!!

 

 まあ、こんなことがあったりもっと酷い内容だったりして、葵は綾香の口車にまんまと乗せられたというわけだ。

 しかし、一度決めたからには、葵は人の所為にはしない。決断を下した以上、それは自分の責任なのだ。葵の長短のある特徴として、その責任感の強さというのがある。それが悪い方向に進んで入れ込んでしまったりもするが、それを浩之がカバーしてくれた訳だ。

 そして今回は、それは最悪の方向で作用した。責任を持って覚悟を決めた浩之にもフォロー不可能な方向まで突っ走っている。

 それは必殺もしたくなるというものだ。綾香と浩之の言葉が耳に入っていなくても、仕方がないと言える。

 ただ、葵も、多少なりとも成長していた。途中で、自分のやっている意味に、気付いた。いや、今までだって、自分が責任感やプレッシャーに押しつぶされていることの自覚はあったが、それを一人で認めるだけの強さがなかったというだけだ。

 誰の力も借りずに、自分の暴走を認められたのは、まさしく成長の結果。

 ただしそれは、選んだ水着を持って、浩之を伴って密室に近い試着室に入り、そして浩之とカーテン一枚隔てただけの部屋に入って、さて後は試着するだけ、という状況になってからだった。

 まさに、これ以上ない最悪のタイミング。

 このタイミングはない。そのままおかしなテンションで突き通した方が、葵にとっては恥ずかしくなかっただろう。後から自己嫌悪に陥ることはあるだろうが、ここまで来てしまえば、結局どっちでも同じだ。だったら恥ずかしいと感じるものが少ない方がいいに決まっている。

 それに、冷静に考えてみれば、この水着を着て海で泳ぐ訳だから、恥ずかしいことはないのだ。これで街中を歩くのはありえないが、試着室で、浩之だけに見せるのならば……いやどう考えても恥ずかしい。

 さらに、浩之と、この心許ない隔たりを置いただけで、服を全部脱いで水着に着替えなくてはならないことに気付いた葵は、愕然とした。

 ……どうしよう?

 試着室で一人途方にくれる葵に、答えてくれる人は、誰もいなかった。

 

続く

 

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