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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(14)

 

「海に行くとは言っても、遊びじゃない、合宿だ。皆、そこのところを勘違いしないように」

「えー、でも、せっかくの海ですよ? せめて泳ぐぐらいは許してくれてもいいんじゃないですか?」

「とか部員は言ってるけど、どうよ、坂下?」

 坂下のかわりに合宿の諸注意を述べていた池田に話をふられて、坂下はテーブルから顔をあげた。というか、空手道場に座テーブルが置いてあるというのもシュールな光景ではある。そこでは、数人の部員達が悲痛そうな顔をして、教科書とノートをにらめっこしている。そこには、やっと動けるようになった健介の姿もあった。

 綾香との死闘から、そう長い時間が経っている訳ではない。まだ、坂下は練習が出来るほどは回復していない。というよりも、普通ならば、入院、最低でも自宅待機はしていなければいけないほどの体調だった。だが、坂下は、学校に来ていた。

 怪我が治る前に無茶をすれば、それこそ酷いことになるのだが、後遺症が残らないと医者に聞かされてからは、坂下は躊躇しなかった。確かに身体はまだ痛いが、日常生活すら普通に送らないのでは、身体の衰えが激しすぎると思ったのだ。

 自分の練習は出来ないが、後輩達の指導は、身体が動かなくても出来ることはある。そして、何より坂下の力を、部員達は欲していた。

 坂下は、何事にも真面目に取り組んでいるので、学校の成績も悪くはない。成績優秀、というほどではないが、少なくとも教科書片手に人に教えることが出来るほどには、自分で努力をしてきている。まさに文武両道、まあ武の方に傾きすぎているきらいはあるものの、そう言ってもいいだろう。

 だが、部員全員が文武両道という訳にはいかない。武に関しては、ここの空手部はなかなかのものだが、文がおろそかになっている者はけっこういる。自主的に学校を休んでいた健介やランはその筆頭とも言える。

 そして、悲しいかな、どれほど空手部でがんばっても、それが学校の成績に影響する訳でもないし、赤点を取れば追試や補習を免れないのだ。

 坂下は怪我で学校には出られなかったが、先生がわざわざ病院に来て、期末試験を受けさせてくれた結果、どの教科もそこそこの点数を取ったのだ。日頃の真面目な授業態度と、身体が動かないからと言っても、自己学習は欠かさなかったのだから、当然と言えば当然。

 で、同じ怪我をしていた健介は、田辺がつきっきりで勉強させた結果、何とか赤点二個で済んだ。怪我のこともあったし、追試で合格点が取れれば補習は免れるのだ。ただし、追試で落ちれば、合宿にはこれない。夏休みの前半は補習でつぶれるのだ。それは健介ではなく田辺の方が必死になろうというものだ。

 そこまで酷くはなくとも、赤点を取った人間はちらほらとおり、その部員達の先生として、坂下は勉強を教えていたのだ。

「あ、泳ぐぐらいは許してやってもいいんじゃない?」

 坂下の、別に内容は普通の、しかし、鬼の姉御と呼ばれる坂下を知っている者にとっては驚愕の言葉を聞いて、部員達はざわっ、と声をあげる。

「まさか坂下先輩がそんな甘いことを?!」「やっぱ怪我で弱ってるのか?」「騙されるな、あれはきっと偽物だ」

 酷い言われようだねえ、と坂下は苦笑する。まあ、鬼と呼ばれるほど坂下の練習が厳しいのは確かだが、坂下だって、言葉通り鬼ではない。せっかくの部活だ。それなりに楽しいことがあってもいい、とは思っているのだ。

「だいたい、合宿だからって特別厳しくするようなやわな練習、今までしてきてないだろうに」

「まあ、そうか。これ以上厳しくすると、死人でるかもしれないしなあ」

 池田はかなりぶっそうなことを言っているが、そう言うだけの練習を、確かにしてきている。そもそも、がむしゃらに厳しくすればいいなどという部活ではない。運動系にありがちな、伝統行事という名を借りたしごきなど、坂下が完全に断ち切っているのだ。

「というわけで、自由時間はあるし、はめを外さない程度には遊んでもいいよ。海水浴場も近いから、海で泳ぐぐらいは出来るからね」

 坂下から言質を取れたことで、ガッツポーズをしている部員もいる。坂下が一度言ったからには、それを覆すことはないのを分かっているのだ。そして、何のかんの言っても、この部の中で、一番重みがあるのは、坂下の声なのだ。

 ただ、まあ、坂下は決して甘い先輩ではなかった。

「泳ぐだけの元気が残ってたら、褒めてあげるわ」

 その言葉で、部員全員の顔がひきつる。ろくに身体が動かせなくとも、やはり坂下は坂下だ。坂下がそう言うからには、実際に泳ぐ元気が残らないぐらいには厳しい部活になるだろう。

 にやりと口をゆがめながら、坂下は部員達を一瞥して、そしてぷっと吹き出した。

「……冗談だよ、冗談。もちろん楽な合宿じゃないけど、動けなくなるまで練習するようなことは、そうだね、最終日ぐらいにちょっときついのを入れるぐらいにするよ」

 部員達は、一様にほっと息をつくが、油断しすぎとも言える。ちょっと、というのは、坂下の言葉のあやなのだから。

 無駄に厳しくするつもりはないが、それでも、一日自由に練習が出来るのだ。これを機に、何人かは一皮むけさせることが出来るかもしれない。坂下は、部員全員に、それなりの限界を経験してもらうつもりだった。

 坂下は、大会には間に合わないだろう。試合に出られるような身体を取り戻すには、まだまだ時間が必要だ。他の部員には、坂下の分までがんばってもらわないと駄目なのだ。まあ、そういう意味では、来年は安泰のはずだ。一年に健介とランという、逸材が二人も入ったのだ。

 ただ、その片方は怪我をしている上、今は追試の為の勉強の真っ最中である。

「ほら、健介。頭かかえてないで、真面目にしな。何か分からないことがあれば教えるから」

「い、いっそ殺してくれ……」

 坂下の、優しいと言える言葉にも、健介は死人のような目でそう答えるのだった。不屈を絵にしたような健介にも、勉強は最大の弱点なのだろう。まるで吸血鬼にニンニクを飲ませたように瀕死寸前である。これならまだアリゲーターと戦った後の方が元気だったかもしれない。

「田辺がせっかく勉強見てくれたってのに、あんたは赤点取ったんだ。ここで挽回しないと、男が廃るよ」

 しかし、今の健介には、坂下の声も田辺の名前も、まったく効力を発揮しない。

「いやだ……もういやだ……」

 ゾンビのごとく目がうつろな健介は、それでも何とか勉強を続けている。坂下に言われたので反射で従っているのか、田辺にそれだけ調教されたのか。とにかく、本人とか関係ない意志が働いてそうだった。まあ身体が完調ならば、絶対走って逃げていたと思うが、今は逃げることが出来るような状態ではないのだ。幸いなことなのか、不幸なことなのかは、この際無視する。とりあえず、追試を合格するまでは。

 困ったもんだ、と坂下は苦笑しながらため息をつくと、ふと、思い出したように言う。

「そう言えば、ランは今日はどうしたんだい?」

 もう一人の逸材の一年、ランの姿が、珍しくここにはなかった。いつもは、頼まなくとも坂下にひっついているようなところがあるのだが、今日に限って、ランの姿がない。猛勉強したらしく、ランは赤点をぎりぎり免れたらしいから、勉強会に加わる必要はないが、合宿の諸注意もあるし、そもそも練習をさぼるような人間ではないのに。

 そして、最近はめっきり真面目に部活に出てくるようになった御木本の姿も、なかった。

 この二人の姿が同時に見えない、というのは、何かあまり良くないことのように坂下には思えた。お互い、仲は悪いし気は合いそうにないが、だからこそけっこうお似合いなのでは、とか坂下は思っているのだが、さすがに口には出さない。そんなものを口に出そうものならば、色々面倒なことになるからだ。

 とにかく、二人は仲は悪いし気も合わない。だからこそ、二人が一緒にいる場合は、のっぴきならない状況であることが多いのだ。坂下がいればどうとでもなるが、いないところで二人でいれば、それはもう化学反応のように激しく反応するだろう。

 まあ、二人が一緒である確信もないので、坂下はランの身の心配だけすることにした。

 丁度、そんなことを思っていると、入り口が開き。

「よう、遅くなったな」

「……遅くなって、すみません」

 いつになくいやに元気な御木本と、健介よりも酷い、死んだ魚のような目のテンションが低すぎるランが、道場の中に入ってくるところだった。

 

続く

 

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