遠くから歩いて来る姿だけでも、はっとするような綺麗な姿だった。普通に付き合っていると忘れがちだが、綾香は十二分に裕福な、社交界のパーティーに呼ばれるほどの家柄なのだから、綺麗な歩き方ぐらいは出来るだろうが、しかし、そもそもの素材が、違う。
いつも手足が外にさらされているような服を着ているのに、その細く長く、そして何よりもまるで豹のようにしなやかな手足にはシミ一つなく、しかし、青白いとは間逆の、健康的な白さを誇っている。どういう手入れをしているのか分からないが、その長い髪は、長さからは想像出来ないほどにさらさらで、歩くだけで風になびき、きらきらと光って見えた。そして、何よりも、その格好が凄い。いや、まずいというべきか、大変によろしいと言うべきか、判断に迷う。
綾香の格好は、実にシンプルなものだった。白い、セパレートのビキニ。水着一つ選ぶのに、何故ああまで時間がかかるのか、と浩之は思ったものだが、しかし、同じ白い水着であっても、その微妙な差異が大きい。それは、極端に切れ込みが入っている訳でもないし、あり得ないほど布の面積が小さい訳でもない。だが、それはあくまで水着だけに着目した場合だ。
綾香の、完璧とも言っていい肢体とそのシンプルだが、だからこそ素材を生かした水着のコンビネーションは、浩之どころか、健介までも無言にさせた。
「おまたせ〜」
男の目になど頓着していないのか、それともすでに慣れているのか、綾香はいつも通り人なつっこい笑みで片手をあげて近づいてきた。それだけで、面積は、まあそれなりに用意はされているが、それでも隠しきれない、さらに言えば布で隠しただけでは動きまでも止めることは出来ないその双丘が、柔らかそうに揺れる。
ごくりっ、と男二人は唾を飲み込んだ。視線は、完全にそこに釘付けになっている。あまりにあからさま、とは言え、その本能に勝てる男はいない。
「……綾香さん、ずるいです」
「え、何、葵? ズルって、私何もしてないけど? というか、何の話……はは〜ん」
ふくれた葵を見て、綾香はにんまりと笑って、腕を頭の後ろで組んでしなを作る。まあ、当たり前だがそんなことをすれば、持ち上げられた胸とかくびれた腰とか適度な大きさを保ったお尻とかが強調される訳である。
というか、その胸の谷間は反則だ。腰が細いので、余計にその胸が強調されていることを差し引いても、男にとっては魅惑的過ぎる。
「葵は、少しは女の子らしい体型になったけど、それでも痩せすぎだからねえ。胸、うらやましいんでしょ?」
「べ、別にうやらましくなんかない、です」
とてもうらやましそうに言う葵は、綾香にからかわれていることを分かっていても、感情を明らかに消せていない。まあ、真っ直ぐな葵に感情を殺せと言う方が無理な話か。
「でも、このスタイルは、別に何か努力してる訳じゃないしねえ。葵がうらやましがっても、分けてあげることも助言をしてあげることも出来ないわね」
そういう綾香は、もうまったく申し訳なさそうもしないし、むしろ葵をからかって楽しんでいるようにしか見えない。誰も忘れていないほど基本設定として、綾香は極度のサドであり、それは基本的に自分が気に入っている相手にほど酷くなっていく、という困った性癖を持つ。綾香がいじめたりしない相手は、ある意味綾香よりも上手の部分を持つ綾香の祖父と、姉である芹香だけなのだ。
まして、綾香にとっては葵はかわいいかわいい後輩である。からかって楽しむのは、綾香にとっては当然なのだ。葵にとってはいい迷惑ではある。
「綾香さん、ちょっとはまわりの目を気にして下さい。センパイ達が困ってますよ」
「そう? どう見てもうれしがっているようにしか見えないけど」
さすがに、そこまで挑発的な格好をされては、葵もそっちで文句を言う。葵を挑発するのなら別にいいのだが、ポーズまでつけるのは、男達にとってはやりすぎだ。まあ、普通の女の子がするのなら眼福程度で済むのだろうが、綾香がするのでは、破壊力が違う。
ここまで綺麗だと、逆に作り物じみて来るものだが、綾香の中からは、生命力があふれ出てくるのだ。それがまた、綾香に魅力を与えている。まあ、これを見て目を奪われない男がいるとは思えない。自制が効くのならば、その男はかなりの精神力を持っているか、性癖が特殊か、何らかのトラウマを背負っているとしか考えられない。
「ほらほら、浩之。どう? 似合う?」
「……あ、ああ、正直、似合いすぎてる。言葉を無くしたよ」
綾香に話しかけられて、やっと浩之は正気を取り戻した。話しかけられていない健介はまだ目を奪われているが、これで健介を責めるのは酷というものだろう。
「ふふ、ありがと」
浩之に褒められて、ちょっとほほを染めて嬉しそうに笑う綾香の、綺麗なことと言ったら。そちらの顔にこそ、目を奪われそうだ。
と、ここまでは、多少葵が不憫ではあるが、平和なものだった。だが、これで終わらないのが、綾香の綾香たる所以だろう。綾香は、ちょっと何かを考える仕草をすると、にんまり、と実に綾香らしい、意地の悪そうな笑みを作った。
それだけで、浩之の背筋に悪寒が走る。この笑みに、今まで何度酷い目にあって来ただろうか。最近は並の攻撃ならば避けられるようになって来たが、ここに来て、また捕まるようになって来た。何か、強くなればなるほど、綾香の攻撃が酷くなっていくように感じるのは、きっと浩之の勘違いではないだろう。
綾香の打撃の強さを説明するにあたって、まず最初に注目しておかなければならないことは、その初動の速さである。マックススピードの問題ではなく、初動でいかに動く部位が少ないか、それがそのまま、速さではなく早さへと変わる。察知できない動きから来る1の速度は、察知された十の速度よりも早いということはままあることなのだ。
その綾香の初速を持って、浩之は、次の瞬間には綾香の腕に頭を捕らえられていた。抵抗どころではない、回避すら、避けようと思うことすら試みさせない、まったく浩之に動きを気取られることない、天才が繰り出す達人の動き、と言っても過言ではないだろう。
綾香に殺意があれば、浩之はその瞬間に殺されていただろう。無防備な人間を殺すなど、綾香にはまさに赤子の手をひねるようなものなのだから。
ただし、今回は綾香には殺意はなかった。かわりに、浩之を色々な意味で殺すつもりで動いていた。
「嬉しいから、サービスしてあげる」
もにゅん
浩之は、気付いた瞬間には、顔を何か非常に柔らかいものに押しつけられていた。
「っ?!」
「あ、綾香さん?!」
葵の、悲鳴にも似た声があがる。というか完全に悲鳴だろう。もっと驚いているだろう浩之には、悲鳴すらなかった。
綾香は、その大きく実った、形の良い胸に、浩之の顔をうずめていた。浩之がとち狂った訳ではない、綾香がとち狂ったのだ。
「んふふふ、ど〜う、浩之?」
「……」
綾香の、実に楽しそうな笑いにも、浩之からの返事はない。浩之の頭の中身は、混乱を通り越して、すでにショートしてしまっていた。いやそれとも、その心地よさに、完全に脳がとろけてしまっているのか。
胸、と言っても、所詮は脂肪の塊である。のはずなのだが、その柔らかさと、そして綾香の匂いに、浩之は完全沈黙した。
だが、それに黙っていられないのは葵である。
「あ、綾香さん、それは酷いです、卑怯です、反則です! 警告ですレットカードですそんなやり方では禍根が残って遺恨試合です!!」
何を言っているのかよく分からないが、とにかく葵にとってその行為が許せないのは分かる。
「健介も何か言って下さい! 今ならセンパイに飛び蹴りも許します!!」
「え、俺っすか?!」
いきなり話を振られて、うろたえる健介。まあさっきまで惚けていた訳だが、とりあえず浩之の身体で胸の谷間は見えなくなったので、正気を取り戻したらしい。
「別に俺としてはそこのやろうが誰といちゃつこうが姉さんに被害さえなければ別に問題ないんっすが」
「いいからどうにかして下さい!!」
いやそもそも、男の方はともかく、あの怪物をどうにかするなんて無理だし、と健介は我を無くしている葵に、心の中でつっこんだ。
誤解のないように言っておくと、健介にとって、綾香は正直どうでもいい存在だ。いや、それは間違いなくあの怪物を、最強の人間だと確信しており、強さを求める者としては、無視できないものだというのは理解しているが、しかし、個人的には、何ら注目する必要のない相手だと思っている。
先ほど目を奪われてしまったし、いつ見ても綺麗だとは思うが、あくまで、健介が気にするのは葵であり、田辺であり、空手部の仲間であり、坂下なのだ。
坂下を殺しかけた、その事実は揺らぎようもないが、しかし、それは悪意の所為ではない。悪意を持って仲間を害そうとする相手にならば、どこまでも健介は凶悪になれる自信があるが、綾香と坂下の戦いは、二人が納得してのものだった。坂下は、言葉にこそ出さなかったが、実際、殺されるかもしれない、と覚悟を決めているように健介には感じられたのだ。横から口を挟むように、綾香に対して敵愾心を向きだしにする御木本の方がお門違いだとすら思っていた。
まあ、ぶっちゃけ、この怪物の近くにいたいとは少しも思えねえあたりが、俺の限界なんだろうな。
葵がいたとしても、あの怪物の近くで遊びたいとは、少しも思えなかった。まあ、健介がいくら自由時間だとは言え、ここにいるのにはそれなりの理由がある訳だが。
健介がまったく動こうとしないので、そろそろ葵がしびれを切らせて自分から動こう、これでも葵は実力行使への躊躇は少ない、としたときだった。
ゴスッといい音がして、浩之への、戒め自体はない束縛が解かれる。
「あたっ!」
それは、非常に珍しい、綾香の痛がる姿だった。
「いくら海に来たからって、浮かれてあんまり調子に乗るんじゃないよ、綾香」
そこには、大概暴走し過ぎた綾香の頭にげんこつを落とした坂下が、仁王立ちしていた。
続く