綾香の腕に当たったビーチボールは、ぽーんと浮き上がると、緩やかな放物線を描いて、浩之の近くに落ちてくる。それを、浩之は「ほいっ」と軽く腕で受け、綾香と同じように緩やかに上に打ち上げる。
「わっわっわっ」
多少は風に流されるとは言え、浩之が正確に葵のところにビーチボールを落としているのに、葵は何故かもたつきながら、それでも何とかそれを打ち上げる。が、それは二人と比べるとお世辞にもうまいとは言えない。綾香に打ち返すはずが、かなり遠くに飛ぶ。
「よっと」
綾香はそれに簡単に追いつくと、片手でこするようにカットし、多少回転をかけた状態で浩之にパスする。というか、何かビーチボールに意味が分からないほどの回転がかかっているように見えるのは気の所為ではなさそうだった。
「おいおい、何でこんな取りにくい球打つんだよ」
自分に打ち付けられるように飛んできた球を、浩之は身体全体をクッションにするように衝撃を消して、葵の方に、ちゃんと取りやすいスピード、取りやすい高さで返してやる。多分、バレーのスカウトが見れば、一発で欲しいと思うほどのうまさだ。
「え、わっ、よっ」
しかし、やはり葵はまったく余裕なく、浩之が取りやすいように打ち上げてくれた球を、取り難く取っている。ボールの下に入ることもおぼつかないよたよたとした動きは、いつものきびきびとした葵からは想像出来ない。
そして、案の定葵が失敗して、在らぬ方向にビーチボールは飛んでしまった。さすがに真後ろに飛ばされたのでは、綾香でも浩之でも届く訳がない。いや、本気を出せば綾香なら届いてしまいそうだが。
「す、すみませんっ」
葵は、慌ててざぶざぶと波をかき分けてビーチボールを拾いに行く。けっこう遠くまで飛んでしまったようで、遠浅の海は泳ぐことも出来ず、結局葵は水の中を歩くしかできないようだった。
「なあ、綾香」
「何?」
葵がボールを拾いに行っている間に、浩之は綾香に尋ねた。
「葵ちゃんって、球技とかうまくないのか?」
「みたいね。本人曰く『ボールは見えるけど、打った後にどこに行くかなんかわかりません』だそうよ。中学のときに野球部の男の子のボールホームランにしてたけど」
「……」
「ま、動体視力や反射神経が遅いんじゃあ格闘家は出来ないし、瞬発力も高いんだけど、葵って不器用なところがあるから」
ポテンシャルという意味では、どんなスポーツであれ、トップレベルの結果を出す人間は、他のスポーツをやればそれなりの結果を出せるものだと浩之は思っていた。実際、綾香は何をやらしてもうまい。いや、高校レベルであるのならば、それに特化し、全ての青春をかけた相手にさえ、綾香は勝ってしまう。
浩之は、二つばかり思い違いをしている。まず、綾香は規格外の怪物だということだ。綾香に負けることを恥だと思うのは、絶対的な矛盾を生んでしまうのだ。それに相手がたえきれなくなって、綾香は昔兄同然の相手を恐し、坂下を倒し、葵と浩之を苦しめているのだ。
後一つ、これは浩之本人にはどうしても理解出来ないのだろうが、物事には下手な人間もいるということだ。怪物ではないにしろ、綾香からも天才と呼ばれる浩之には、球技が下手な人間の気持ちは分からないだろう。それを責めても仕方ない、浩之は、何をする前から十二分にその力を持っているのだから。
まあ、それにしたって、あそこまで格闘技の強い葵が、球技がまったく駄目だというのもおかしな話だ。
まったくいつもの覇気もなく死んでいた修治ではないが、どんな怪物にも弱点というものはある。しかし、弱点があった方が人間味があってかわいいというのもあると、浩之は思う。いや、もちろん修治の話ではない、葵の話だ。修治のかわいらしさは、正直いらない。
……そういう意味では、綾香ってかわいげないよなあ。
まさに天才。そして怪物。それは、万能ではないのだから、失敗の一つや二つはあるだろう。神ではないのだから、全部が全部自分の思い通りに進められることもないだろう。しかし、その割合が、凡人と比べると、遙かに少ない。
完璧な人間はいない。であれば、綾香のそれは、人間味、というものの欠如、とでも言えばいいのだろうか? いや、その点に関して言えば、そうは思わない。
「何、浩之? 私に見とれちゃって? もう、ほんと、エッチなんだから」
「おいちょっと待て、いつから胸を見てることになってる」
「え、違うの? ビーチバレーしている間、ガン見してたの、気付かないと思った?」
「う……い、いや、ガン見なんかしてないぞ」
「ふふ〜ん」と笑う綾香に、浩之は何も言い返せなかった。いや、でも仕方ないではないか、目をそちらに向けると、腕を動かすたびに揺れるものがあったら見てしまうのは、男のサガだ。これはもう見たくなくても見てしまうほどの呪いなのだ。そこが女の子には理解できないのだ。
そう、綾香は決して完璧ではない。少なくとも、浩之をからかうことを楽しんでいるし、けっこう酷いことを平然とする。まあ言ってしまえば、好きな子をいじめて楽しむ大人の気持ちだ。決して、素直ではない小学生のような気持ちではないだろうが。
完璧と言うには、あまりにも稚拙過ぎる、その愛情表現を、我慢するぐらいには綾香のことを大切に思っているし、何と言ったところで、大切な時間だとは思う。ただ、愛しいと思うほどには、浩之は経験が足りない。いや、足りてしまっても何か問題な気もする。違う扉は開きたくない。
「……なあ、綾香」
そして、浩之は、それが自分の使命であるかのように、聞く。
「何、女の子のビーチバレー姿に興奮するアブノーマルな浩之?」
うぐっ、と浩之は一瞬言葉につまる。というか、ノーマルでも綾香と葵の水着姿のビーチバレーとか見たら興奮度合いは別にして、目を奪われるのは仕方ないと思うのだが。
「……ビーチバレーって、海の中でするものだったか?」
実はこの三人、今までのビーチバレーを、腰まで海につかってやっていた。それでいて三人ともそれを苦にした様子はまったくなかった。葵が下手なのは、多分海からあがっても変わらないだろう。
「まあ、鍛錬だと思えば別にいいんじゃない?」
いや、別に悪くはないけどさ。こうも平気だと、俺も、すでに一般人の枠から外れていると思うと、なあ。
浩之は、言葉には出さずに、多少凹むのだった。
続く